「三国志」魏の3代目皇帝・曹叡、父を反面教師にした活躍と、裏目に出た滅亡
■ 司馬懿の子供たちの暗躍と、第3世代武将の胎動 曹叡は205年前後に生まれたとされており、孫権(182年生まれ)、朱然(182年生まれ)、諸葛亮(181年生まれ)、司馬懿(179年生まれ)たちとは明確に世代の違いがあります。一方、司馬懿の息子の司馬師(208年生まれ)、司馬昭(211年生まれ)とは年が近い。 曹叡が即位したのは21歳前後であり、非常に若い皇帝だったことがわかります。その時に孫権は44歳、諸葛亮は45歳、司馬懿は47歳です。百戦錬磨の英雄たちを相手に、魏の若い皇帝曹叡は、臣下を効果的に配置することで、対処しようとしています。 ちなみに孫権が252年で天寿を全うしていることを考えると、曹丕(39歳)、曹叡(34歳没)の寿命の短さが際立っていることがわかります。二人の皇帝の短命さに、司馬一族が関わっているのではないかと考える人もいるのではないでしょうか。 蜀の北伐対応で活躍した張郃は231年に戦死。彼は曹操時代からの勇将でしたが、若い郭淮などの活躍もあり、曹叡が適切な人材配置を問題に対処していたことがわかります。 ■ 3代目曹叡が、堕落していく契機となった234年の諸葛亮の死 蜀の諸葛亮は、228年から五丈原で死去する234年まで、合計5回の北伐で魏に侵攻しました。しかし、いずれも決定打を欠き、魏軍に侵攻を阻まれています。最後の五丈原の戦いでは、魏軍を率いる司馬懿が堅く守って持久戦となり、諸葛亮は雄図むなしく戦場で病没します。諸葛亮の死は、三国志時代の非常に大きな転換点となりました。 曹叡は、13年間の在位のうち、前半は君主として適切な判断と行動を維持していましたが、後半からは大規模な宮殿造営など、富を乱用して魏を疲弊させます。一説には、諸葛亮が死去したことで、外敵に対する警戒心が緩んだのではないかとされています。 曹叡の死去の数年前から、曹操以来の事務方の名臣も世を去っていき、曹叡の浪費を止めることができる者がいなくなったのもあり、また在位の後半は色に溺れて社会規範も乱れていきます。これらを止める精神的な歯止めが、曹叡の生き方の中になかったのでしょう。 のちに蜀の滅亡を導く武将の鄧艾(195年生まれ)、またその配下で蜀攻略に貢献した鐘会(225年生まれ)、呉との攻防で活躍する羊祜(221年生まれ)などの人物は、三国志の終幕を生み出した武将たちとして有名ですが、どちらかと言えば司馬師、司馬昭の配下というイメージがあります。 曹叡は父の曹丕から避けられて育ち、母を殺されたこともあり、曹丕を反面教師として帝位に就いたのでしょう。しかし諸葛亮の北伐を防ぎ切ったという大任を全うした安心感か、もしくは彼自身が皇帝としての野心や目的に欠けたため、魏と曹家がすべてを失う端緒を作ってしまったのです。