東大を再受験する人と「学歴コンプレックス」の関係とは。学び続けるために必要な「原動力」とは?
賢いと思われたい人は東大にはいない
東大生がどれくらい賢いか聞かれると、具体的な数値で答えることはできないけれど、「みんな賢い。ハズレの人がいない。上位5%くらい特別に賢い人がいて、あとはみんな団子状態。議論したいテーマがあるとき、誰に意見を聞いてもそれなりの回答が得られる。それが素敵」と答えています。 みんな前提知識が大人を凌駕するくらい十分にあって、判断が早くて、論理的に思考できるから、議論に向いています。 泳げない水泳選手がいないように、バットが振れない野球選手がいないように、そういうことができない東大生はいません。HBの鉛筆をベキッとへし折って当然のように、できて当たり前のことなのです。 みんな賢いけれど、東大に入るとそれぞれの賢さがあることに気づきます。 数学がとてつもなくできるとか、3ヶ国語がネイティブレベルで話せるとか、国際問題や政治について造詣が深いとか、賢さをひとつの物差しでが測れません。 さらに、上位5%くらいの天才的な賢さを発揮する学生の存在によって、自分が“普通”であることに気づきます。賢さなんてものは相対的な概念なので、所属する集団の中で自分の位置が中間であれば自分を「賢い」と思いません。 賢く思われようと無理をする人もいません。そんなことをしなくとも、目の前の人を尊重し、東大生としてその賢さを認めているし、相手もきっとそうであると考えています。それにどんなに努力しても、上位5%くらいの天才に並ぶことができません。 一方で、東大の外に目を向けると、どんな手段を使ってでも賢いと思われたい人がいます。 ▶この記事の【後編】を読む▶ どんな手段を使っても「賢い」と思われたい人は存在する。なぜそういう心理になるのか?
元国税芸人 さんきゅう倉田