「死ぬのが怖い」と思うあなたへ...キリスト教の説く「永遠の命」とは
「死」は、誰にでも、必ず訪れるものです。避けられない「死」への恐怖を前に、人類は、宗教に心の救いを求めてきました。キリスト教の「死生観」について、聖心会のシスター鈴木とイエズス会の片柳神父が語りあいました。
どのような「死」を迎えようとも、使命は果たし終えている
【鈴木】「死は遠い先のこと」と思われている方が多いかもしれません。けれど、死は誰にでも、必ず訪れます。私は最近、若い人の突然の死に遭遇いたしました。 【片柳】私も葬儀や追悼ミサなどを介して多くの人の死に触れるのですが、そうした場面で必ずこうお伝えしています。「長年連れ添った人との『別離』は深い悲しみであり、胸が張り裂けるような思いでしょう。 けれど亡くなられた方のことを考えてみれば、残された私たちとは違う面が見えてきます。亡くなられた方は、この世界で神様から与えられた使命を果たし終えて、神様のもとへと迎えられたのです。 『あなたは、もう十分に頑張った。そろそろ天国に帰ってきなさい』と神様に迎えいれていただくのが『死』です。先に天国へ召されたお父さんやお母さん、友人たちも待っています。その人たちと再会し、永遠の安息に入る。それは大きな喜びです。 それなのに私たちがいつまでも悲しんでいたら、故人を心配させてしまいます。天国でいまその方に起こっていることを思い、そこに希望を抱いて乗り越えていきましょう」と――。 【鈴木】そうですね。その人が一生の使命を成し遂げて天国に入ったことを喜び、その人のおかげで幸せに生きられていることへの感謝とともに思い出すことが、一番の供養だと思います。 大切な人の死によって、私たちは「自分の人生にもいつか終わりがくる」ということを実感し、「今日一日を一生懸命に生きよう」「限りある人生をダラダラと生きてはもったいない」と心を引き締めて大切に生きることができます。それは、故人から私たちへの贈り物だと思うのです。 【片柳】シスターに聞いてみたいことがありまして。若くして亡くなること――例えば死産や、病で幼い子どもが亡くなってしまうことがあります。そこにはどのような意味があるのでしょうか。 【鈴木】例えば3歳で子どもを亡くされたお母さんやお父さんは、とても悲しいですよね。けれどその子も「3歳までの命」を神様から与えられたのです。その子の使命は、周りの人たちに「命の大切さを教えること」かもしれません。 「子どもを持つ家庭がどれほど大きな喜びに満たされるかを教えてくれること」かもしれません。いつ、どのように死を迎えようとも、その人はその人の使命を全うしてこの世を去っていくのだと思います。 【片柳】そうですよね。この質問をされるといつも心苦しくて......。けれど、たとえ死産であっても、その子を宿した数カ月の間にいただいた愛やぬくもりに感謝をしていくということ。 あるいはたとえ10年しか一緒にいられなかったとしても、「10年しか生きられなかった」と思えば悲しみに押しつぶされてしまうけれど、「10年だけれどこの子と一緒に生きられた」と思って、その時間を「宝」にしていくことが大切だと思うのです。そうしているうちに、その子の命に大きな意味が見えてくるのではないでしょうか。 【鈴木】亡くなっていく人たちの「良さ」というものは、この世で、たくさんの人に分散して残っていきます。その人が生前に示してくれた優しさを、思いがけず周囲の人から受け取ることがあるのです。 「ああ、亡き人が同じように優しくしてくれた」「亡き人もこんなふうに語りかけてくれた」など、その都度、思い出されます。亡き人は、消えてなくなってしまうわけではありません。人間は深いところでみんな結ばれていて、お互いが付き合うようにできているのだと思います。