世界ランク3位・宮本昌典、重量挙げ40年ぶりのメダルへ 『高校止まり』に直面した大学入学時
ウエイトリフティング男子の日本勢はメダルから40年遠ざかっているが、パリオリンピックでは73kg級の宮本昌典(みやもと・まさのり/27)選手に期待が集まる。東京2020オリンピックでは7位と悔しい結果となったが、世界ランキングは3位とメダル圏内に位置しており、このあと決戦の幕が上がる。ここでは宮本選手のウエイトリフティングとの出合い、俗にいう『高校止まり』に直面した大学入学時を振り返ったインタビューをお届けする。 [ウエイトトレーニング専門雑誌『IRONMAN2021年1月号』より一部抜粋] ――レスリングで活躍したお父様の影響で6歳からレスリングをやっていた宮本選手。ウエイトリフティングに出会ったきっかけは? 宮本 沖縄はウエイトリフティングがお家芸と言われるくらい強い選手がたくさんいて、もともと身近な存在ではありました。でも、一番のきっかけは中学校、高校とお世話になった平良真理先生と出会ったことですね。 ――旧姓仲嘉真理さん。2000年シドニー五輪に日本人女子で初めて出場されたリフターですね。 宮本 真理先生と僕の父が知り合いだったことが縁で、小学6年生の時に先生が指導していた沖縄工業高校のウエイトリフティング部に遊びに行くようになったんです。まだ子どもだったので、最初のうちはずっと木の棒をシャフト代わりに練習させられていましたが、部員のお兄さんたちがみんなすごく優しくて、遊びに行っていたようなものですね。 ――大会などですぐに結果は出ましたか? 宮本 いえ、全然です。でも、中学になって初めて全国大会に出場したとき、1年生ながら全国で6位になったんです。当時は今ほど中学生リフターがいなかったからですが、入賞したことで「お、自分に合っているのかな」という錯覚が起きて(笑)、そこからは必死に上を見るようになりました。 ――現在所属する東京国際大学の三宅敏博ヘッドコーチが、宮本選手について「理想の筋肉を持っている」と評していますが、身体的な特性もあったのでしょうか。 宮本 筋肉って、柔らかいほうがじつは力を発揮しやすいと言われている。その部分でみんなに「いい筋肉」とは言われます。物心ついたころから、人よりは身体が柔らかいなという自覚があったので、親に感謝ですね。 ――リフターとしての覚悟が決まった転機はありますか。 宮本 やっぱり、身近にすごいオリンピック選手がいたことは大きいと思います。真理先生もそうだし、真理先生を通じて年に一度、三宅宏実選手やお父様の義行監督が沖縄に来られていたんです。自分に期待もしてくれたので、オリンピックをさらに身近に感じるようになりました。 ――東京国際大学では、五輪連覇の三宅義信監督、全日本を5度制した三宅敏博ヘッドコーチの薫陶を受けることになりました。沖縄から上京したとき、何か心境の変化はありましたか。 宮本 沖縄を離れるのは合宿で慣れていたので、それほど刺激はなかったです。ただ、進学当初はスランプに悩んだ時期も正直ありました。自分が思っている力がなかなか出せない時期が半年ぐらい続いて、「これが俗にいう『高校止まり』か」と思いましたね(苦笑)。 ――高校で競技の成長が止まってしまうということですか? 宮本 はい。大学生活のなかで遊びを覚えたりして潰れていく選手もけっこう多くて、「俺も知らず知らずのうちにダラけてるのかな」と。また、今思うと高校時代の練習を引きずってしまい、大学のメニューが提示されても「これは自分には合わない」と心のどこかで拒絶していたのかもしれません。 ――具体的にはどんな風に練習メニューが変わったのですか。 宮本 大学はトレーニングルームなど強くなる設備が整っています。マシンなどのメニューが一気に増えたこともあって、最初は「こんなのをやって強くなるのかな」と。高校時代は、それこそバーベル1本でできることが基本でしたから。でも、監督やコーチを信じようと気持ちを切り替えて、自分の身体もメニューに対応できるようになってきてからは、一気に記録も伸びていきました。