酔った道長からの“和歌ハラスメント”紫式部の「見事な返し」。歌を聞いた道長はどんな反応だったのか
「まるで物語の女君のようですね!」(「物語の女の心地もしたまへるかな」) これに対して豊子は「どうかしていますよ……眠っている人を無理やり起こすなんて」(「もの狂ほしの御さまや。寝たる人を心なく驚かすものか」)と呆れながらも、照れた様子だったとか。 まるで学校の休み時間のようだ。式部にとっては、かつては落ち着かなかった内裏が、この頃には、大切な居場所になっていたのだろう。 式部が女房を辞めるときには、代わりに娘の賢子が、彰子の女房をつとめるようになる。娘に同じ道を歩ませたのは、自身が女房の仕事を思いのほか楽しめたからではないだろうか。
しかしもちろん、女房としての生活は楽しいことばかりではなく、面倒なことも日常的に発生する。 無事に彰子が敦成皇子を出産すると、しばらくは何かと宴会が開催された。そのたびに貴族たちが酒に乱れるので、女房たちも大変だったようだ。 敦成皇子の生後50日を祝う「五十の日」では、右大臣の藤原顕光が羽目を外したらしい。 『紫式部日記』に「右の大臣寄りて、御几帳のほころび引き断ち、乱れ給ふ」とあるように、几帳のほころんだところを引きちぎって、暴れたという。何をやっているのだろうか。女房たちが「さだ過ぎたり」、つまり「いい年をして……」とドン引きしたのも当然である。
そんな顕光のことを道長は「愚の骨頂だ(「至愚之又至愚也」)」と普段から酷評していたようだ(『小右記』長和5〔1016〕年1月27日)。藤原実資も、顕光のことを散々にこき下ろしている(『小右記』寛仁元〔1017〕年11月18日)。 「下は五位から上は丞相に至るまで、嘲笑しない者はいなかった。笑い疲れて休む暇がないほどである」 (左相国、五品より始めて丞相に至るまで、万人嘲弄、已に休慰なし」 ずいぶんな言われようだが、相手をする女房たちも大変だったことだろう。
■隠れる式部に「和歌を詠め」と迫る道長 だが、顕光のことを辛辣に評した道長も、孫の敦成皇子にまつわる祝いの席では、何かとやらかしている。 この「五十の日」においても、あまりにみなが酔っぱらうので、祝宴が終わるやいなや、式部は宰相の君(豊子)とフェイドアウト。御帳台の後ろに隠れてやりすごそうとしていた。 ところが、2人の様子を道長は目ざとく発見。几帳を取っ払ってしまうと、2人を捕まえてこう言ったという。