「いじめは自死に値する苦しみ」という“物語” 北澤毅・立教大学名誉教授 <いじめ問題の解決法【2】>
<【4章】「いじめ物語」を解体する(その1)-自己物語の書き換え実践>
●4(1)自己を相対化するとはどういうことか 子ども時代に過酷ないじめられ経験をしたという精神科医の中井久夫は、学級という小集団を権力社会と捉え、その閉塞社会のなかで標的にされたいじめ被害者が、「孤立化」「無力化」「透明化」させられ自尊心を失い、いじめっ子に従属していく過程を鮮やかに描き出しています(「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』みすず書房、1997年、pp.2-23)。 ところで、学級集団を権力社会と捉えることに抵抗を覚える人もいるでしょうが、これは2(2)で論じた「学級集団がいじめを生み出す」という命題と同様、学級、会社、国家など多くの集団には同じような秩序維持メカニズムが働いているという考え方に支えられています。 そして、このような冷徹とも言える学級集団の捉え方は、生徒指導や学級経営にも大いに役立つ可能性があるのですが(映画『ザ・中学教師』1992年、はそうした視点から中学校を描いています)、この問題を詳しく論じようとするといじめ論から話しが逸れてしまいますのでここでは控えます。 また本稿で注目したいのは、「透明化」をめぐる議論ではなく、いじめ被害者の自衛策について述べられている最後の部分です。 中井は、子ども時代の過酷ないじめに耐えることができた理由として、「自分を乖離しいじめられている自分をひとごとのように外から眺める能力」を持てたこと、さらには、自分と同じようにいじめられていた疎開児童と「ペア感覚」を持てたことの二点に言及しています。 ここで「自分をひとごとのように外から眺める」とは「自己を相対化する」こととほぼ同じと言えますし、「ペア感覚」とは「同じように苦しんでいる他者と出会う」ことと言い換えて良いかもしれません。 例えば、学校に行かずに家に閉じこもるのではなく、不登校の子ども達が集まるフリースクールに通うなかで、同じような苦しみを味わう他者と出会うことで精神的に安定するとすれば、そこには「ペア感覚」と同様のメカニズムが働いていると考えられます。 このように中井は、孤立感から自らを解放し生き延びるための重要な戦略をさりげなく教えてくれているように思います。 ただ、「ペア感覚」を持てるかどうかは、同じような経験をしている他者と出会えるかどうかにかかっているのに対し、「自己相対化」は自分一人でもできる点が重要です。 とはいえ、どうすれば「自己を相対化する」ことができるかですが、ここで重要なのは、「自己相対化は大切だ」という「知識」を覚えるのではなく、自己を相対化する「方法」を身につけ実践できるようになることです。 では、どのような方法があるのかということになりますが、ここまでの議論を踏まえたうえで二つの方法を紹介したいと思います。 一つが、これから紹介する「自己物語の書き換え実践」、そして二つ目が、次節で紹介する「いじめ問題の成立背景を知る」という方法です。 ●4(2)自己物語を書き換える まずは、「自己物語を書き換える」という実践方法についてです。 すでにおわかりと思いますが、これは「いじめ苦とは意味の苦しみである」「人生は物語である」という考え方から導き出される方法ですが、ここではテレビドラマの印象的な一場面の分析を通して、この方法の有効性を示してみたいと思います。 もう10数年前になりますが、中学校でのいじめ問題をテーマにした『わたしたちの教科書』というドラマが放映されました(フジテレビ系、2007年4月12日~6月28日の全12話)。 第1話のなかで、陰の主役である藍沢明日香が、校舎の窓から転落し死亡してしまいます。 その後、彼女の死が「いじめ自殺」であったかどうかをめぐって物語は展開していきますが、最終話で、明日香の親友だった仁科朋美が裁判所で重大証言をし、明日香は事故死であったことが判明するという展開です。 ドラマのなかには、学級内のいじめられっ子として、藍沢明日香、仁科朋美、山田加寿子という3名の生徒が登場しますが、この3名には自殺念慮に囚われるという重要な共通点があり、ドラマ全編にわたって「死」が充満しています(ただし朋美の自殺の試みは、いじめられ経験に関連してはいますが、「いじめ苦」を直接の動機としたものではありません)。 と同時に注目すべきは、自殺念慮に囚われた3名が、それぞれ異なった理由や事情から自殺を思いとどまることになるのですが、その理由や事情のなかにこのドラマの重要なメッセージが込められています。 なかでも、「自己を相対化する」というテーマにとって重要なのは藍沢明日香の事例です。 最終話の仁科朋美の証言のなかで、次のような重要場面が回顧的に語られます。 校庭で複数の生徒間で乱闘騒ぎが起き、生徒達が校庭に入り乱れているなか、明日香は一人教室の窓からその様子を眺めています。そこに朋美が入室してきて二人の間で会話がはじまります。 朋美には、クラスのなかのいじめられ役を明日香に代わってもらったうえに、いじめられる明日香を見殺しにしてきたという重い過去があり、明日香に対する罪悪感と自責の念で押しつぶされそうになり、2人の会話の流れのなかで自殺しようと意を決し教室の窓から身を乗り出そうとします。 その時、明日香が「私もおととい死のうと思った」と語りかけることで朋美は飛び降りるのを思いとどまり会話が続いていきます。 以下、引用します。 明日香:朋美!おとといさ、私もおととい死のうと思った。私が死んだって悲しむ人はいないし。ただ消えるだけだし。そう思ってさ。私、秘密の隠れ家に行ったの。でも、死ぬのやめちゃった。 朋美:どうして。 明日香:私はひとりじゃないってわかったの。私にも、私が死んだら悲しむ人がいるってわかったの。 この後も2人の会話は続きますが、明日香を自殺から思いとどまらせた「悲しむ人」とは誰なのかについてはこの場面では明らかにされません。 そしてエンディングで、私達視聴者は、明日香が秘密の隠れ家(小学生時代に朋美と遊んだ思い出の場所)の壁に書いた「明日香より。明日香へ」というメッセージに出会うことになります。 少し長くなりますが全文を引用したいと思います。 明日香より、明日香へ。 わたし、今日死のうと思ってた。ごめんね。明日香。 わたし、今まで明日香のことがあまり好きじゃなかった。 ひとりぼっちの明日香が好きじゃなかった。 だけど、ここに来て気付いた。 わたしはひとりぼっちじゃないんだってことに。 ここには8才の時のわたしがいる。 わたしには8才のわたしがいて、13才のわたしがいて、いつかはたちになって、30才になって、80才になるわたしがいる。 わたしがここで止まったら、明日のわたしが悲しむ。 昨日のわたしが悲しむ。 わたしが生きているのは、今日だけじゃないんだ。 昨日と今日と明日を生きているんだ。 だから明日香、死んじゃだめだ。生きなきゃだめだ。 明日香。たくさん作ろう。思い出を作ろう。 たくさん見よう。夢を見よう。明日香。 わたしたちは、思い出と夢の中に生き続ける。 長い長い時の流れの中を生き続ける。 時にすれ違いながら、時に手を取り合いながら、長い長い時の流れの中を、わたしたちは、歩き続ける。 いつまでも。いつまでも! このメッセージを突きつけられた時、私は意表を突かれた思いがしました。と同時に、いじめられて孤立しているであろう多くの子ども達に届くだけの、充分に説得力のあるメッセージになっているのではないかとも感じました。 明日香は、いじめられて孤立し死ぬほど苦しいという思いを抱えながら生きてきたわけですが、そのような自分を見事に相対化し、「いじめは自死に値する苦しみである」という「いじめ物語」からまったく別の物語に自分の力で書き換えています。 「私が死んだら悲しむ人がいる」という明日香の言葉は、具体的な相談相手を探し当てることができない場合でも、誰にでも究極の相談相手として「過去の自分、未来の自分がいる」と語りかけていますが、これは、メッセージとして普遍的な力を持っているのではないでしょうか。 なぜなら、自分の死を悲しむ具体的他者は必ずしも存在するとは限りませんが(明日香は、両親と死に別れており天涯孤独という設定です)、悲しむ自分(「過去の自分」「未来の自分」)を物語世界のなかに立ち上げることはやろうと思えば誰にでもできることだからです。 ●4(3)苦しみの内容は人それぞれでも苦しみ方は同じである とはいえ、所詮、ドラマのなかの話しに過ぎず、実際にいじめで苦しんでいる子ども達が自分の力で物語を書き換えるなど無理ではないかと思うかもしれません。確かに、現実的には難しいと思います。 しかし、そもそも子ども達は「いじめ物語」に絡め取られるからこそ「苦しい、死にたい」と思うのだとすれば、いじめ物語のメカニズムを理解することで「いじめ苦」から解き放たれる可能性が生まれるということは論理的には正しいはずです。 ですから、ここで確認しておきたいことは、実際には難しいかもしれないが論理的には可能であるということです。 そして問題は、論理的に可能なことを現実に可能とするためにはどうすれば良いかということです。 言うまでもありませんが、一番良いのは、今いじめで苦しんでいる子ども達が「いじめ物語」のメカニズムを理解し、自分が何に苦しんでいるかを理解できるようになることです。 しかし、いじめられて苦しいと思っている子ども達には自分を相対化する精神的余裕がないかも知れません。 そこで重要となるのが、今これを読んでいるあなたです。 あなたが中学生であるか大人であるか、いじめられた過去があるかないかにかかわらず、物語論の考え方に説得力を感じるとすれば、是非とも、いじめで苦しんでいる誰かに、「いじめ苦」や「孤独感」を生み出すメカニズムを伝えて欲しいと思います。 そしてできれば、「物語の書き換え」実践に協力して欲しいと思います。 では、どうすれば物語を書き換えることができるかですが、残念ながらマニュアルは存在しません。 ただ、少なくとも重要なポイントが2つあると思っています。 まず第1に、ここまで話をしてきた「人生は物語である」という物語論の考え方の基本メカニズムを理解することです。 私達は、いろいろな状況で「人それぞれでしょう」という言葉をしばしば口にしますし、その言葉に納得することも多いと思います。 確かに、あなたが出会う出来事はあなただけのものですし、誰も代わることのできないあなたの人生そのものです。 しかし一方、あなたが出会うユニークな出来事を「私はいじめられている」と理解するとすれば、その時から「いじめ物語」が発動し始め、「いじめ苦」という独特の苦しみを生きることになります。 「いじめられている」と思った時にはすでに、あなたに起きた出来事は個別性をこえた一般性を獲得し、「いじめられている」皆に共通する経験へと変質するということです。 だからこそ、「いじめ物語」のメカニズムを理解することが、いじめに苦しむすべての子どもを救う可能性を持つことになるのです。 とはいえもう一つのポイントは、いじめられるに至った経緯には、それぞれの子どもによって違いがあるはずですので、個別性も大事にしなければならないということです。 ですから、それぞれの子ども達の具体的な経験内容や友達との関係性などについて丁寧に話しを聞く必要がありますし、その上で、その子が充分納得して受け入れることができる「新たな物語」を、聞き手であるあなたも協力して紡ぎ上げていくことができるかどうかにかかっています。 つまり、「物語の書き換えのすすめ」とはいえ、一方で、物語のもつ普遍的なメカニズムを理解し、他方で、子ども達1人1人の経験の個別性を理解するという二重の理解がともなわなければうまく行かないかもしれないということです。 複雑で面倒な作業と思われるかも知れませんが、それができれば、いじめで苦しんでいる子ども達を救い出せる可能性が高まると思うのですがいかがでしょうか。 【著者】 北澤毅(きたざわたけし) 1953年 茨城県つくば市生まれ。茨城県立土浦第一高等学校卒業。東京大学教育学部学校教育学科卒業。筑波大学大学院博士課程終了。日本女子体育短期大学専任講師、立教大学文学部教授を経て、2019年4月から立教大学名誉教授。 専門は、教育社会学、逸脱行動論。主な著書:『少年犯罪の社会的構築』東洋館出版社、『文化としての涙』勁草書房、『いじめ自殺の社会学』世界思想社、『教師のメソドロジー』北樹出版、『囚われのいじめ問題』岩波書店など。