「いじめは自死に値する苦しみ」という“物語” 北澤毅・立教大学名誉教授 <いじめ問題の解決法【2】>
「いじめ」が社会問題化してからおよそ40年が経過したのにもかかわらず、なぜ「いじめ問題」はなくならないのか。 今もいじめに苦しんでいる子どもたちを救い出すためのヒントとして、立教大学名誉教授の北澤毅さんは「自己物語の書き換え実践」と「いじめ問題の成立背景を知る」という二つの方法を挙げる。 一体どういうことなのか。(全3回の2回目)
<【3章】人生は物語である>
●3(1)事実とは何か:「客観的事実」という幻想 私達人間は、地球という物理的環境世界を生きていると同時に「意味の世界」を生きています。 ここで「意味の世界を生きる」とは、私達は、言葉を使って自分の周囲で起きる出来事に意味を与えることで生きているということです。 あなたは、自分の過去の出来事をすべて記憶しているでしょうか。そんなことはないはずです。1週間前に何を食べたか、友達と何を話したかなど、ほとんど覚えていないでしょうし思い出すこともできないはずです。 しかし私達は、何か特別なことがあった時のことは鮮明に覚えています。大切な記念日のこと、大災害があった日のこと、すごく恥ずかしい振る舞いをしてしまった時のことなど、いろいろな思い出があるはずです。 このように、特別な出来事について語ることで楽しかったり辛かったりの思い出となり、それが積み重なってあなたの人生が形作られていきます。 それだけではありません。長い間、恥ずかしい出来事だと思っていたことが、実はあなたの人生にとって貴重な経験になっていたことに、あとになって気づくことがあるかもしれません。 それは、あなたにとってその出来事の持つ意味が変化したということです。 つまり、起きてしまった過去の出来事を変えることはできませんが、出来事の持つ意味は、その後の人生のなかで変わることがある、変えることができる、少なくともいつでもその可能性があるということです。 ここから言える大切なことは、私達の人生とは「語ることで意味が与えられる物語である」ということです。ただし、ここで物語とはフィクション(虚構)という意味ではありません。 私達は、人生のなかで出会う様々な出来事のなかからその一部を切り取り物語ることで、その出来事を意味のある経験として記憶し人生を形作っていきます。 そういう意味で「人生とは物語である」と言いたいわけです。 その上で、物語にはもう一つ、出来事に意味を与える解釈枠組みとしての働きがあるということについて説明したく思います。 ここで解釈枠組みとは、カメラのフレームのようなものです。誰かの姿をカメラで撮影しようとする時、人物と背景とのバランスをどうするかを考えながら撮影すると思います。 いわば、何をどのように切り取りどのような構図にして撮影するかを常に判断しているということです。もちろん、撮影された内容は事実かも知れませんが、その事実は、撮影者の判断によって「切り取られた事実」です。 それと同じく、あらゆる「事実」は何らかの枠組みを通して「切り取られた事実」であるという特徴を帯びています。そして、私達1人1人の人生にとって、カメラのフレームと同じ働きをしているのが常識や物語ということになります。 つまり私達は、常識や物語という解釈枠組みを、時には自覚的に時には無自覚のうちに採用することで、身の回りで起きる様々な出来事のなかからある一部を切り取り、そうして切り取った断片を語ることで「私の人生」を作り上げているということです。 とはいえ、「人生とは物語である」「物語とは解釈枠組みである」という考え方に抵抗を覚える人も少なくないかも知れません。 というのも私達は、なにより学校教育を通して「正しい答え」や「正しい考え方や振る舞い方」を徹底的に教え込まれてきていると思うからです。 そればかりか、「事実」とは、言葉によって「語られた事実」であるとか、「事実」とは解釈枠組みによって「切り取られた事実」であるといった「事実」に対する考え方に接する機会もあまりないのではないでしょうか。 ただ、もしそうだとしても、「いじめ問題」に関心があるのでしたらもう少し私の話しにつきあって欲しいと思います。 なぜなら、事実や物語についてのここまでの議論を踏まえることではじめて、新たないじめ対策論が展開可能となるからです。 ●3(2)「自殺のSOS」という物語 「自殺のSOSに気づくはずだ」。これは、日本社会に広く浸透している考え方(言い換えれば「いじめ物語」の一つ)です。 例えば、中学生が自殺をしたとします。 そうすると、「なぜ生徒のSOSに気づかなかったのか」という語りがほぼ必然的に登場しますが、そうした語りが生まれるのは、私達が「自殺のSOS」物語を信じているからと言えます。 このような考え方を踏まえることで、「自殺のSOS」物語と「いじめ苦や孤独感とは意味の苦しみである」という考え方とがどのように関係しているかを明らかにしていきたいと思います。 まず考えてみたいのは、中学生や高校生が孤独を感じるのはどのような場合かということです。 その生徒の周りに誰もいないからでしょうか。そういう場合もあるかも知れませんが、身近に親や友達など沢山の人がいるにもかかわらず、「私のことを誰も分かってくれない」と孤独感を深めていく場合もあるのではないでしょうか。 だとすれば、このような心理的孤独はどのようなメカニズムが働いて生まれるのかということです。 いろいろな状況が想定可能でしょうが、ここでは「自殺のSOS」物語とのかかわりに焦点化し、「いじめ自殺」で子どもを失った親達へのインタビュー記録集(鎌田慧『いじめ自殺』岩波文庫、2007年)を手がかりに論じたいと思います。 鎌田の本のなかには、子どもを「いじめ自殺」で失った12人の親が登場しますが、なにより印象深いのは、自分の子どもがいじめられていたことに気づかなかった、自殺するなど思いもよらなかったと語っている親が相当数いることです。 ただし勘違いしないで欲しいのは、子どものSOSに気づかなかった親を批判したくてこのようなことを言っているわけではないということです。 そうではなく、親達が「気づかなかった」と語る背後には、「心理的孤独」や「他者理解」という問題を考える上で重要なヒントが隠されていると思うからです。 そのことを、1人の父親の語りを分析することで示してみたいと思います。 以下、引用します。 それで死ぬちょうど1週間前、月曜日の朝は「いってらっしゃい」と私が送ると、「行ってきます」っていってたんですよ。それが、火曜日の朝からはクルマのなかで、ずうっと前を見ていて、話しかけても、しゃべらなくなったんです。黙りこくって。 でもそのときは過去にもそういうことがあったものですから、そっとしておいたんです。たしか中学2年のときでしたか、1週間ぐらい黙ってしまったことがあるんですが、その後、挨拶するようにもなったし、笑顔も出てきましたから、このときもそういうことかなと思っていたんです(鎌田 2007年、p.93)。 この父親は、「黙り込む」という子どもの異変にはっきりと気づいています。しかし問題は、「黙り込む」という異変は、必ずしも「自殺のSOS」を意味するわけではなく、他の解釈も可能であるということです。 そして父親は、子どもの異変を、過去にも同じようなことがあったので今回も同じかもしれないと考えたと語っています。 この父親のように、何か異変を感じた時に、その異変を理解するために過去の経験に手がかりを求めるというのは、きわめて自然で妥当なことではないでしょうか。 私達は、家族や友達の異変に気づくことはしばしばあるはずです。そして、「どうしたのかな、体調悪いのかな、何かあったのかな」などと考えながら心配するはずです。 でも、「自殺のSOSかも知れない」などと普通は考えないはずです。 もちろん、「死にたい」と何度も呟いたり自殺未遂をしたりなど、よほど特別なことが異変の前にあったのなら「自殺のSOS」を疑うかも知れませんが、そうしたことがない限り、異変を「自殺のSOS」と捉えることはきわめて難しいと思います。 父親は異変に気づかなかったわけではありません。気づいた上で、その異変を過去のエピソードを手がかりに解釈したということです。 もちろん、子どもを自殺で失ってしまった親としては、「自殺のSOSに気づいてやれなかった」と語るしかないのかも知れませんが、少なくとも私達第三者が、「なぜ自殺のSOSに気づかなかったのか」などと親や教師を責めるのは、もしかしたら的外れかもしれないということです。 でも、もしそうだとすれば、大きな疑問が2つ浮かびます。 まず第1に、それではなぜ、かくも根強く「自殺のSOS」物語が説得力を持ち続けているのかということです。 そして第2に、「自殺のSOSに気づけない」とするなら、それ以外に自殺を防止する方法として何があるのかということです。 まずは1つ目の疑問についてです。 もし家族や親しい友人が自殺をしたとすれば、私達は驚き悲しみ途方に暮れ、「なぜ自殺をしたのか」と問わざるを得なくなります。 そして過去を振り返り、「あの時、もっと丁寧に話しを聞いてやれば良かった。どうして苦しみに気づいてあげられなかったのか」などと、いろいろと思い当たることが出てきて後悔するはずです。 しかし残念ながら、そうした気づきは、悲劇が起きてしまった後に過去を振り返った時に初めて可能になるのだと思います。 私達には予知能力などありませんから、大切な人の異変を感じた時には、それまでの経験を頼りに異変を理解しようとする以外に方法がありません。そして多くの場合、異変の後に続くのは「自殺ではなく回復」だと思います。 だから私達は、「思い過ごしで良かった。元気になって良かった」と思い、また元の日常生活に戻るわけです。そして少しすれば異変があったことさえすっかり忘れてしまうかも知れません。 しかしながら、本当にごくまれにですが、誰も予想していなかった突然の悲劇として自殺が起きてしまうことがあるわけです。 残された人達にとって、その時の出来事は強烈な記憶として残るでしょうから、「自殺のSOSに気づけたはずだ、気づくべきだった」と自責の念に囚われ続けることになるかもしれません。 しかしそれは、自殺という悲劇が起きた後だからこそ思うのであって、あらかじめ気づけることではないということもまた、どうしようもない私達人間の限界なのだと思います。 しかしでは、「自殺のSOS」に気づけないとするなら自殺を防止することは不可能なのでしょうか。 この第2の疑問に対しては、「自殺を防止する方法はある」とはっきりと言いたいと思います。 ただ、それを言うためには少し遠回りになるのですが、いじめで苦しむ子ども達もまた、大人達と同じように「自殺のSOS」物語を信じているからこそ孤独感を深めることになるという論理を説明する必要があります。 ●3(3)他人の気持ちのわかり方 まず確認しておきたいのは、「誰も私の苦しみを分かってくれない」と思い悩むのは、「分かってほしい、分かってくれるはずだ」と期待しているからとも言えます。 もしかしたら、すべてに絶望し他者に期待することを完全にやめてしまうことがあるかもしれませんし、そういう子ども達に私の話しが届くかどうかは自信がありません。 そういう限界を意識しつつ、「誰も私の苦しみを分かってくれない」という苦境から子ども達を救い出す方法について論じていきたいと思います。 さて、すでに「自殺のSOS」問題について論じたことですが、私達は他者の異変に気づくかも知れませんが、その異変の意味は様々に解釈可能です。 ですから、もしあなたが、いじめられて死ぬほど苦しいと思いつつ何も言わず自分の世界に閉じこもってしまうとすれば、両親や友達はあなたの様子がおかしいことには気づくかも知れませんが、異変の理由については、あなたが期待するとおりには理解してくれないかもしれません。 そうなれば、いじめに苦しみ、さらには「誰にも分かってもらえない」と思い悩むことで孤独感に苦しむという二重の苦しみを味わうことになり、ますます孤立感を深め窮地に陥ってしまうかも知れません。 だから、「あなたの苦しみに気づくこと」と「あなたの期待通りに反応すること」とは別であるということ、そしてなにより、あなたの思うようには伝わらないことには明確な理由があるということを理解して欲しいと思います。 さらに重要なのは、ここで展開している議論は「自殺のSOS」問題に限ったことではなく、他者理解をめぐる基本的な考え方の一部であるということです。 ですから、何がどう苦しいのかを、あなたにとって信頼できる相手にはっきりと言葉で伝えることが解決への第一歩であると、まずは言いたいと思います。 このように言うと、あまりに平凡な提案にがっかりするかも知れませんが、自分の苦しい思いが大切な人達に伝われば、もうそれだけで解決への大きな一歩を踏み出したことになる場合も少なくないはずです。 しかしもう一つ重要なことは、「言葉で伝える」実践だけではうまくいかない場合があるかもしれないということです。 なぜなら、先ほど紹介した事例と同じように、「いじめられて苦しい」「学校に行きたくない」「死にたい」と語ったとしても、周りの人達がそれらの言葉を異変の一部とみなし、あなたの思いとは別の方向にあなたの言葉の持つ意味を解釈するかも知れないからです。 これは充分に起こりえることですので、そこで絶望したりせず、生き延びるためのさらに別の方法を考え実践していく必要があります。ここで話しが終わるわけではないということです。 それに、「言葉で伝わらない」ことに絶望するのは早すぎます。 なぜなら、「私の苦しみを誰も分かってくれない」と言うのは簡単ですが、そう主張するあなた自身も、あなたにとって大切な誰かの苦しみを相手の望むとおりに理解できるかどうかは怪しいからです。 そういう意味でも、あなた自身が誰かの気持ちをどうやって理解しているかについて、ここでの議論を手がかりにあらためて考えてみて欲しく思います。 そうすれば、私達はお互いに、相手の気持ちを完全に理解することなどできないということ、分かったつもりですれ違うこともしばしばあるということに気づくはずです。 というより、自分の気持ちが完全に他者に理解され見透かされてしまうとすれば、それはそれで、自分という存在がなくなってしまうような不気味な不安を感じるはずです。 このように私達は、「私の気持ちを分かって欲しい。でも、私のすべてを分かられたくない」という何とも矛盾した思いを抱えながら生きる複雑な存在なのです。 こういう複雑さが理解できれば、それだけで少し気持ちが楽になるかも知れませんし、孤独感からの脱出への一つのきっかけをつかめるかもしれません。 もちろん、これが結論ということではなく、むしろ結論への第一歩と位置づけ、いじめ苦や孤独感とは「意味の苦しみ」であり、「人生とは物語である」という問題について、さらに考えていきたいと思います。