ノーラン監督『オッペンハイマー』レビュー。作品が背負った非倫理性と、原爆投下の表象不可能性
「日本に来たことで、(原子爆弾の開発に携わった)自分の苦悩に変化があったとは思いません。事業の技術的成功に関与したことを後悔したこともありません。申し訳ない、と思っていないわけではないのです。昨夜よりは今夜のほうが、その気持ちが薄れているというだけで」 【画像】『オッペンハイマー』場面写真 理論物理学者、「原爆の父」ことJ・ロバート・オッペンハイマーは、1960年9月5日、広島・長崎への原子爆弾投下後はじめて日本を訪れた。冒頭の言葉は、東京で開かれた記者会見で「原爆の開発者として来日の感想を」とコメントを求められた際の返答だ。 「広島には訪問されますか?」そう尋ねられたオッペンハイマーは、「行きたいとは思っています。しかし、実際に行くことになるかはわかりません」とも答えている。 その後、彼が広島や長崎を訪れたことは生涯にわたり一度もなかった。じつのところオッペンハイマーは、原爆開発とその結果をどう受け止めていたのか。東京で発された微妙なニュアンスの言葉は、いったいどんな思考に支えられていたのか――。 映画『オッペンハイマー』は、天才的頭脳をもちながら大きな過ちを犯してしまった主人公の複雑な内面に、同じく複雑なアプローチをもって接近した作品である。「複雑」とは、すなわち「曖昧」でもあるということだ。
歴史をクリエイターが物語ること
デヴィッド・リーン監督『アラビアのロレンス』(1962年)と、オリバー・ストーン監督『JFK』(1991年)。監督・脚本のクリストファー・ノーランは、映画史に残るこの2本を『オッペンハイマー』の参考にした作品として挙げている。前者は第一次世界大戦のアラブ反乱を、イギリス陸軍将校トマス・エドワード・ロレンスを主人公に描いた戦争映画。後者はジョン・F・ケネディ暗殺事件の捜査と裁判に大胆な解釈で迫ったミステリーだ。 史実や実在の事件を、フィルムメイカーが個人的な視点と手つきで扱うこと。『オッペンハイマー』でノーランが継承したのは、歴史に対するそうした語り手のスタンスだった。原爆の製造・開発を目的とする「マンハッタン計画」を牽引したJ・ロバート・オッペンハイマーの半生を描くために、ノーランは、映画の大部分を本人の視点で語るというアプローチを採用したのである。 ただし、ノーランはオッペンハイマーの半生を決してシンプルな構造では描かなかった。『メメント』(2000年)や『インターステラー』(2014年)、『ダンケルク』(2017年)などで物語の時系列を解体しながら独創的なストーリーを語ってきたように、本作でも時制はことごとくバラバラにされている。それらがパズル的な手つきで再統合されるとき、思わぬ真実や結論が浮かび上がってくるのだ。 主な時系列は3つある。ひとつはオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の学生時代からマンハッタン計画を経て、彼が原爆投下後の苦悩に至るまでの経緯。もうひとつは1954年に開かれたオッペンハイマーの聴聞会。そして最後が、1959年に開かれたアメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の商務長官就任をめぐる公聴会だ。 しかも今回、ノーランは時系列だけでなく主観・客観をも描き分けた。オッペンハイマーの視点によるパート「核分裂(FISSION)」はカラー映像だが、ストローズを軸とした客観視点のパート「核融合(FUSION)」はモノクロ映像。時間と視点を超えて展開する物語は技法こそ複雑だが、そこで描かれるものは意外なほどシンプルだ。それは、「主人公オッペンハイマーの失敗と苦悩」にほかならないのだから。