「予約が取れない店=いい店ではない」 菊乃井三代目が断言する理由「もう“講釈”はいいから黙っといてくれ、“講釈”を食べに来たわけやないぞ」
料理屋としての良心は
「予約が取れない」ことを自慢する向きもあります。でも、予約が取れない店=いい店、ではない。これだけははっきり言っておきたいと思います。 たとえば、予約のキャンセルがあったとしましょう。すると、そのあとにお客さんがあっても受けない。現実に、キャンセルの分、空いているんですよ。なのに、なぜか、受けない。そういう商売の仕方はどうなのか。それでいいのか。 ほんまにお客さんのことを考える、自分の作った料理をちゃんと皆に公平においしく食べてもらいたいと思う、これが料理屋商売の基本、料理屋としての良心です。そのへんを考えれば、「予約が取れない」ことは自慢することなのか、という話です。 私ら京都の人間は、「東京」という無国籍な巨大都市が日本の料理文化を破壊していくのとちゃうか、と心配しています。そうした時に、うちの先代の言葉を思い出します。 「鮨屋の『あて』のようなものばっかりいくら並べても、それでは『懐石』にはならん。それでは料理屋にはならんねん」 「『懐石』には起承転結がある。一つのルールがあって、そのなかで料理を作るのが『懐石』で、『食べ物』を並べて出して、それがうまければよかろうというのは料理屋やなくて居酒屋や。居酒屋でよければそれでよいけど、お前は、何になりたいねん」 そんなことを先代がよく言うてました。 居酒屋さんも一つのご商売ですから、それはそれで一生懸命やってはる人はいます。 ただ、料理屋と居酒屋では、提供するものが違う。 そういう意味で、このところの東京は、「居酒屋みたいな料理屋」が多過ぎないか。 そんな感じがして仕方がありません。 焼いた牛肉の上に生ウニをのせて、その上にキャビアをのせる。そういう料理を見て「うわー、すごーい」と喜ぶ客がいる。それがいくら高くても「うまい!」とか「おいしい!」言う客がいる。 そういうのに遭遇する時、私らは店に対しては「何を食べさせようと思ってるんや」と言いたくなるんです。それと同時に、目つむって「うーん」とかうなっているお客さんに対しても「おいしい言い過ぎちゃいますか」と突っ込みを入れたくなるんですよ、正直な話。 それから、料理以外の「講釈」が多過ぎる。一皿の料理を出すやいなや、「このお皿は魯山人です」「このお皿一枚でマンション一戸買えます」とかなんとか。なんと下品な物言いやと思いますね。 そんな話に「へー、すごいんだね」とか言って喜ぶお客さんもいるかもしれません。 でも、あなたのところも料理屋ならば、その皿にマッチする盛り付けをして、「わー、きれいやわ」という声を聞きたくはないのか。その後で、「それで、この器は?」と訊かれたらはじめて「実は……」という話をすればいい。 あるいは、魚料理を出す時に、最初から「この魚は瀬戸内の何とかいうところで獲れた……」とか、「山陰は何々港からの直送で」とか、地理の勉強会みたいな、情報てんこ盛りの話をする。そんなことは「この魚は、おいしいね。どこの?」と訊かれてから「どこそこの、何なにです」と簡潔に答えればいいんです。魚屋さんやないんやから。 とにかく「講釈」が多過ぎる。料理より「講釈」が先に立つ。もう「講釈」はいいから黙っといてくれ、「講釈」を食べに来たわけやないぞ、という店がある。これも問題やと思いますね。 文/村田吉弘
---------- 村田吉弘(むらた よしひろ) 1951年京都府生まれ。 立命館大学卒業後、名古屋の料亭で修業を積み、「菊乃井 露庵」、「赤坂菊乃井」、「無碍山房」を開業。 NHK「きょうの料理」等に多数出演。NPO法人「日本料理アカデミー」名誉理事長も務め、日本料理の国際化を牽引している。著書に『村田吉弘の「うまみ酢」でかんたん和おかず』等、監修本に『だしを極める。 日本料理の伝道師・村田吉弘が伝授』等多数。 ----------
村田吉弘