【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】チームメイト・高田繁が語る"ミスタープロ野球"<前編>
高田 何倍とは言えないけど、積極的であったことは間違いない。三遊間の打球でも「ショートに任せた」という感じはなかったね。捕れる打球は全力で捕りにいく。ボールを捕る姿勢、捕ってから投げる姿、そのあとに守備位置に戻る動き、その一挙手一投足にファンは注目していたはずだよ。みんなが喜ぶのもよくわかる。 ――豪快にトンネルする姿も映像で残っていますが? 高田 それは引退する2~3年前くらいのものじゃないかな。その頃は少し守備範囲が狭くなったかなとも思ったけど、それは誰にでもあることだから。30代半ばまで長嶋さんの衰えを感じることはまったくなかったし、打つだけじゃなくて、守りも走りも素晴らしいスーパースターだった。 ――長嶋さんと王さん。走攻守が揃ったふたりのスーパースターがいたから、前人未踏のV9が達成されたんですね。 高田 9年連続日本一なんてことは、ひとりやふたりの力ではできないと言われるけど、長嶋さんがいて王さんがいて、そして監督の川上さんの存在が大きかった。もし誰かが欠けていたら、絶対にできなかったと思うよ。 ――高田さんは長嶋さんが引退したあと、長嶋監督によってサードへコンバートされました。「長嶋のポジション」である巨人のサードを任されるプレッシャーはありましたか。 高田 全然なかったね。長嶋さんのようなプレーができるとは思っていなかったから。僕は子どもの頃からピッチャーと外野しかやったことがなかった。明治大学では外野手に専念していて、内野を守った経験がない。レフトの守備には自信はあったけどね。 ――外野手の張本勲(日本ハムファイターズ)さんがトレードで巨人に入団するという事情もありましたね。 高田 レフトに張本さんが入ったら、僕の出番がなくなってしまう。だから、「内野はできません」とは口が裂けても言えなかった。サードに転向することが決まった翌日から多摩川にあった巨人のグラウンドで練習をしたよ。 長嶋さんが直々にノックを打ってくれた。「こうして捕れ」とか「腰を落とせ」というような技術的なことは一切言わない。引退したばかりだったからパワーがあって、ノックの打球も速いんだよ。ものすごく強烈なのが飛んできた。 監督1年目の1975年に最下位になったあとでもあったし、長嶋さんも必死だったと思う。まわりからはコンバートに対してものすごく批判があったけど、長嶋さんは全然平気な様子だった。 ――内野手が外野に回るケースはたくさんありますが、その逆は珍しい。 高田 長嶋さんじゃなかったら、そんなことは考えなかったんじゃない? プロ野球の常識では無謀だったかもしれない。ただ、僕に内野の経験はなかったけど、ボールを怖いと感じたことはないし、肩と送球には自信があったから、捕りさえすればアウトにできるだろうと思った。難しかったのは、前の緩いゴロだけだったね。 ――サードに転向した高田さんは1976年、118試合に出場して打率.305という成績を残しました(1977年は打率.296)。現在のゴールデングラブ賞に当たるダイヤモンドグラブ賞を1976年、1977年と2年連続で受賞しました。 高田 外野に比べればスローイングは楽なもの。自分を「うまく見せよう」とはまったく考えなかった。長嶋さんのマネなんかできるもんじゃないのはわかっていたから。後輩の中畑清は長嶋さんの守備を意識していたかもしれないけどね(笑)。長嶋さん、王さんはスターだけど、それ以外は脇役。あの頃のメンバーはみんな、そう思っていたはずだよ。 ■バッターとしての長嶋のすごさとは?