「結婚式といえば着物でしょ」という“常識”を桂由美さんはどうひっくり返していったのか 超貴重な証言録
4月26日に亡くなったデザイナーの桂由美さんについての訃報でよく使われたフレーズが「日本のブライダルファッションの先駆け」であり、「ウエディングドレスを広めた功績がある」といったものである。 もちろんこの通りなのだが、成し遂げたことを振り返ると、デザイナーというよりはむしろベンチャー企業の創始者をイメージしたほうがいいのかもしれない。 「花嫁さん」の多くが和装で、ドレスなんてとんでもない、というのが世間の常識だった時代はそう古い話ではない。現在のお婆ちゃん世代が花嫁の頃は、圧倒的に着物に文金高島田が主流だったのだ。 そうした常識を覆すために、桂さんは次々と斬新な手を打ち、関心を集め、成功をおさめていく。桂さんのライフストーリーは、現代のビジネスマンや起業家を目指す人たちに多くの示唆を与えてくれるものとなっている。 多くの人にとって馴染みが無く、また業界関係者らは興味を持っていなかったウエディングドレスをどう広めたのか。読売新聞記者が桂さん本人に取材をしたインタビューをもとにした電子書籍『シリーズ「時代の証言者」ブライダル革命 桂由美』をもとに見てみよう(以下は同書から抜粋)。 ***
「呉服がドル箱」だった昭和30年代
私が仕事を始めた1960年代初め、結婚式にウェディングドレスを着る女性の割合を調べたら、3%しかありませんでした。 パリから帰国後、ウェディングドレスを普及させるために、まず百貨店にブライダルサロンを開くよう提案することにしました。多くの人が足を運ぶ百貨店にコーナーがあれば、女性たちももっと身近に感じるはずだと考えたからです。 有名百貨店の婦人服部長に面会を申し込み、日本初のブライダルサロンを開くことを提案したところ、「ウェディングドレスは売れても、着物の売り上げの10分の1にしかならない」とあっさり断られました。当時、百貨店で呉服はドル箱だったのです。 これが、呉服担当の部長の発言ならまだ理解もできます。でも、婦人服部長までがこのような考えだったのかと思うと悔しくて、泣きながら帰りました。しかし、この悔しさが専門店を開く原動力になりました。「人を頼っていては何も進まない」と、自分で店を開くことを決意したのです。 借金をして、東京・赤坂の一ツ木通りに小さな土地を買い、64年、木造2階建ての「桂由美ブライダルサロン」を完成させました。日本初のブライダル専門店です。本気で取り組むと決心した時から、「桂由美」という名を使うことにしましたが、開店は「デザイナー桂由美」がスタートラインに立った瞬間でした。 開店はしたものの、有名なわけでもなく、お客様はぽつぽつ訪ねて来る程度です。赤坂の店に住み込んでお客様の応対をしながら、週3回、講師として授業を行うために、母が経営していた小岩の服飾専門学校に通う生活が始まりました。 扱うウェディングドレスはオーダーメイドでした。完成までに約3か月かかります。若い女性が注文し内金まで払ったにもかかわらず、途中で「姑しゅうとめが文金高島田でなければいけないと言ったので」と泣く泣くキャンセルしたケースがありました。「絶対に和装しか許さない」と母親から言われ、断念した女性もいます。 様々なデザインのドレスを並べても、好まれるのは長袖で丸首の保守的なスタイルばかりです。女性たちは、新しいデザインにあこがれつつも、着る勇気がなかったのです。もっと積極的に提案しなければウェディングドレスのイメージは広がらず、着てもらえないと痛感しました。 初年度の来店者数は約300人。注文はわずか30件。ウェディングドレスを普及させることは、古い因習との戦いでもありました。