母を殺したのは、父だった 事件から24年…"死刑囚の子"として生きる息子 たどり着いた答え【Nドキュポケット】
■“殺された母”と“殺した父”の間で揺れる心
父からは、面会で母の最期の言葉を聞かされた。 大山寛人さん 「体を無理やり浴槽に沈められて。死ぬ直前に『ひろくん』って僕の名前を叫んだみたいで。でも、僕そのとき、まだ小学校6年生で。2階の自分の部屋で寝ていて、助けてあげられなくて」 「なんで、あの叫びに気づいてあげられなかったんだろうって。今でもすごい後悔してて」 父は、母を殺したことを後悔していると語った。養父を殺した後、周囲から犯行を疑われるようになり、母から離婚をほのめかされたことが動機だったと話した。 大山さんは、父と面会した後、必ず母に会いに行く。殺された母と、殺した父の間で、揺れ動く心──。父を受け入れれば受け入れるほど、母への罪悪感が強くなった。
■“結婚しづらい環境に” 体に刻んだ“父の罪”と“母の痛み”
2022年。父の事件は、今なお生活に影を落としている。 名古屋市内には、大山さんが、住民票を置くために借りている家がある。住所がバレてしまって来られたり、玄関に"殺人者の息子"というような張り紙をされたこともあるという。 趣味の釣りは今も続けている。さおを投げる際、腕元から入れ墨がのぞく。 大山寛人さん 「自分にもし家族ができた際に、同じようなつらい思いをさせてしまうんじゃないか。入れ墨はマイナスの部分しかないと思うので、正直。なので、少しでも結婚しづらい環境に、自分を追いやることが目的」 両腕に刻んだのは、“父の罪”と“母の痛み”だ。 左手に刻んだ“清”は、父親の名前から。そのそばには、骸骨が刻まれていた。罪人が首をはねられて朽ちた姿」「己の命をもってしても罪は償いきれない」「死刑は受け入れる」といった父親の気持ちを表現したという。 逆に右手には、母・博美さんの“美”の文字が。父に殺されてしまった無念などを、自身の中で表現していたという。
■3年前にやめた面会と手紙
父は時折、不安定な心情を手紙につづった。これまでに200回以上の面会を重ね、600通以上の手紙をやり取りしてきた。 大山さんは、3年ほど前から会いに行くのをやめ、手紙のやり取りもなくなった。「そろそろ(死刑が)執行されても本当におかしくない。ここで面会をすることによって、お互い、ついてしまう傷が深くなる」という。 いつか、突然訪れる“その日”に向け、父からの手紙も燃やした。 大山寛人さん 「本当に“もう明日かもしれない”という思いが、より一層強くなってきている。執行された後に(手紙を)読み返しても、自分の心が苦しくなるだけ。いい思い出として読み返すことは、やっぱりできない」