母を殺したのは、父だった 事件から24年…"死刑囚の子"として生きる息子 たどり着いた答え【Nドキュポケット】
■父の逮捕 中学生は“人殺しの息子”と呼ばれ
父が逮捕されたとき、大山さんは中学生。生活は一変し、"人殺しの息子"と呼ばれた。 親戚の家に引き取られたが、学校には行かなくなり、盗みに手を染め、バイクで暴走を繰り返す日々。児童養護施設や少年鑑別所を経て、公園のトイレで寝泊まりするようになった。 あの夜の母の姿が頭から離れず、大量の薬を一気に流し込んだこともある。 “お母さん、ごめんね。こんな僕でごめんね。いま、そっちに行くからね”。大山さんは、そんな思いでベンチの上で眠りについたが、それまで経験したことのないくらいの、強烈な吐き気で目が覚めた。 大山寛人さん 「そのときに思いました。死ねなかったって」
■事件の1年前 父は自身の養父も殺害
父・大山清隆死刑囚は、大山さんの母・博美さんを殺害する約1年前、自身の養父も殺害していた。会社の方針をめぐって対立し、鉄アレイで殴った後、交通事故に見せかけて7000万円の保険金をだまし取っていた。 母の事件から5年、父に一審で死刑判決が下ると、その6年後、最高裁で死刑判決が確定した。
■弱々しく映った父の姿 責めることは「ひとつも言えなかった」
一審の判決後、拘置所の父とは、面会や手紙のやり取りをするようになった。きっかけは、初めて拘置所を訪ねたことだった。 大山寛人さん 「あれほどまでに恨み、憎しみ続けた父親の姿が、あまりにも弱々しく、変わり果てていたんです。体はやせ細り、プルプル震えながら、涙を流していたんです。お父さんは涙を流しながら、僕に謝ることしかできなかった」 「当然、僕もその姿を見てからは、お父さんを責めるようなことはひとつも言えなかったです。絶対に許すことはできないけど、生きて罪を償ってほしいという風に、思いは変わりました」
■初めて手にした母の形見 誕生日の“星マーク”
2013年。拘置所の父から宅配便が届いた。荷物の中には、母が生前使っていた手帳やカードが入っていた。大山さんが、初めて手にする形見。母が手料理を作り、父と祝ってくれた最後の誕生日には、星のマークが記されていた。 大山さんは、ティッシュで涙をぬぐいながら、「形見を送ってくれたのは父さんだけど、殺害したのも父さんなんで」と話した。