終結40年「ベトナム戦争」 早稲田塾講師・坂東太郎のよくわかる時事用語
「ベトナム戦争」が4月30日で終結40年を迎えました。映画や音楽のテーマとして描かれたり、報道写真や映像で伝えられたりすることもあり、これらを目にしたことがある人も多いと思います。ベトナム戦争とは、改めてどのような戦争だったのでしょうか。またアメリカなどに与えた影響はいかばかりであったのか、なども含めて振り返ってみます。 【図】南シナが再び緊張「中越戦争」とはどんな戦争?
ベトナム独立と米ソ冷戦
現在のベトナム社会主義共和国は、かつて北緯17度線でベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分かれていました。形式上はこの両国による戦争です。実態としては、アメリカが肩入れした「南」と、旧ソ連(現在のロシアなど)と中華人民共和国が支援した「北」および南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)の戦いです。 ベトナムを含む東南アジアの一部は第二次世界大戦前までフランスの植民地支配下にあり、フランス領インドシナ(仏印)と呼ばれていました。日本が1940年に北部仏印を、41年には南部を占領した後も、日仏のいわば二重支配(第二次世界大戦末の一時期を除く)となっていました。45年の日本の降伏で共産主義革命家のホー・チミン率いるベトナム独立同盟会によってベトナム民主共和国の独立が宣言されました。認めないという態度を示したフランスとの間で戦闘状態に入り1946年から54年まで続きます。インドシナ戦争といいます。 旧ソ連と1949年に建国した中華人民共和国は同じ共産陣営なのでベトナム民主共和国を承認。対するフランスはベトナムの阮(グエン)王朝最後の皇帝バオ・ダイを元首とした「ベトナム国」という傀儡(かいらい)政権を作って承認。反共産主義の立場からアメリカも承認します。54年に結ばれた休戦のためのジュネーブ協定で北緯17度線を軍事境界線とすることなどが取り決められました。「ベトナム国」は南に位置づけられ、貴族出身で阮王朝官僚でもあったゴ・ディン・ジェムが、翌55年に「国民投票」によってバオ・ダイに取って代わり、国名をベトナム共和国と改め大統領に就任しました。アメリカは支持するもののジェム政権が急速に独裁化し、腐敗もしたので軍事などの間接的な援助に止めていました。 ベトナム戦争は宣戦布告が行われていないため、「いつから」とすべきか難しいところです。最も早期とするならば、ジェム政権下の60年からの解放戦線と南の交戦でしょう。63年にアメリカの支持を得た軍部がジェム政権を倒して後はアメリカが直接軍事介入してきました。64年の「トンキン湾事件」が事実上の発端です。これは、中国最南端の海南島とベトナムの間にあるトンキン湾で軍事行動をしていた米軍艦が北ベトナム軍にニ度攻撃されたとされる事件です。なお、二度目の攻撃は今ではほぼでっち上げと認識されています。 米議会から戦争遂行の権利を与えられたジョンソン米大統領は、報復として翌65年から北ベトナム爆撃(北爆)を開始しました。戦略爆撃機B52を投入した無差別爆撃です。東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイが空軍参謀総長で「焼き尽くす」ことを目的としたのは似通っています。食糧を断つために穀物地帯を焼き払い、山を丸焼きにして北や解放戦線の隠れ場を失わせるといった目的があったようです。陸軍部隊も次第に増強されていきました。65年には19万人であったのが68年には54万人にまで膨れ上がります。合計約300万人の兵士が投入され約5万人が戦死しました。 北や解放戦線が得意としたのは森林を利用した神出鬼没のゲリラ戦でした。また解放戦線の兵士の多くは軍服をまとわなかったため、米軍には一般人かそうでないかの区別がつかず、結果的に多くの民間人を犠牲にしてしまいました。