終結40年「ベトナム戦争」 早稲田塾講師・坂東太郎のよくわかる時事用語
枯葉剤被害と反戦ムード
枯葉剤が散布されたのもこの戦争の大きな特長でした。真の狙いは北爆と同じくゲリラの拠点となる森林や穀物を枯らすのが目的とみられています。問題はそこに毒性のあるダイオキシンは含まれていた点。枯葉剤を直接浴びなくても水に混じっていれば飲んだら体に蓄積されます。ダイオキシンの人体への影響は諸説あるも、日本のダイオキシン類対策特別措置法が「人の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがある物質である」としているように、危険なのは間違いありません。散布地域に異常出産などの健康被害が出ており因果関係が強く疑われています。 68年頃になると、後述するアメリカ国内の厭戦気分に油を注ぐような戦局になりました。「ケサンの戦い」で戦略的に敗北したのに続いて、北と解放戦線が一斉蜂起したテト攻勢は市街戦の陰惨な光景を報道で目の当たりにして、米世論は一挙に厭戦から反戦へと傾きます。69年からアメリカ、南北ベトナム、解放戦線の4者会議がパリで始まり、73年には和平協定が結ばれて米軍は撤退を始めます。しかし南北の不和は解消されず、結局1975年4月、南の首都サイゴン(現在のホーチミン)が陥落し、南の降伏で戦争は事実上終了しました。勝った北は南を統一して翌年のベトナム社会主義共和国建国へと至ります。 ベトナム戦争は独立運動であると同時に、アメリカを中心とする資本主義陣営(西側)が南を、旧ソ連を中心とする共産主義陣営(東側)に当時は仲が良かった中華人民共和国が加わって北および解放戦線を支持する「冷戦」構造による代理戦争という二側面があります。
アメリカ「初」の敗北
アメリカにとって対外戦争での明らかな敗北は初めての経験でした。共産陣営への敗北というのも二重のショックでした。ただこの敗北は内なる反戦機運が招いたともいえるのです。 戦争の初期は「共産主義化を防ぐ」という名分を理解して政府を支持する国民が多かったのですが、行き詰まり状態に陥って「何のための戦争なのか」と自問自答する米国人が次第に増えてきました。アメリカが信奉する「自由のため」に戦っているのはいったいどちら側なのかと。この頃は米軍幹部の口こそ固かったものの戦場での取材は比較的自由で、多くの記者やカメラマンが状況を伝えました。米部隊に従軍しながらでもできたようです。 特に「テト攻勢」の悲惨な映像は、当時大幅に普及していったテレビを通して家庭に届けられ、政権に打撃を与えました。戦死者が増えるにつれて戦場に送られる若者を中心に徴兵拒否が広がり、反戦デモが首都ワシントンで十万人以上の規模で繰り広げられました。また戦場で死亡する多くがアフリカ系であったのも関連し、当時の公民権運動とも連動します。「ラブ&ピース」をうたうヒッピームーブメントが席巻し、反戦を示唆する歌が多く作られました。体制に挑戦して敗れるというバッドエンドが目立ったニューシネマの流行も最盛期を迎えます。 以後のアメリカにも折に触れて「ベトナム」の痛みがさまざまに表現されています。歌手のブルース・スプリングスティーンがケサンの戦いに触れた“Born in the U.S.A.”を発表したのは1984年。21世紀に入ってもアフガニスタン戦争やイラク戦争が泥沼化するたび「ベトナムの二の舞」といった表現が多用されました。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断名もベトナム帰還兵をきっかけにまとめられました。それまでの戦争はアメリカ勝利の「良い戦争」であったのに対し、ベトナム戦争はそこがが疑わしく、祖国のために命をかけて戦ったのに称賛を得られないところから特有の症状がみられるとされています。