終結40年「ベトナム戦争」 早稲田塾講師・坂東太郎のよくわかる時事用語
その後の戦争報道への影響
比較的自由であった戦争報道による反戦、反政府機運の盛り上がりを体験したアメリカの後の政権は報道に対する規制を強めています。従軍取材、特に前線取材など原則として認めず、情報を担当する高級幕僚を設置し、軍の安全を脅かすとなれば取材を禁止させます。一方で「軍事拠点だけを攻撃していて一般市民には被害を与えない」といった当局にとって都合のいい「絵」の提供は熱心になりました。こうした傾向は湾岸戦争あたりから顕著になり「報道の自由」を訴えるジャーナリストとの角逐が時に報じられています。
日本とベトナム戦争の関わり
日本は憲法9条の制約があって国として自衛隊を出すといった形での参加はありませんでした。しかし1972年に本土復帰するまでアメリカの信託統治制度下にあった沖縄の飛行場からは軍用機が出撃していきました。 海上自衛隊と米海軍の基地がある横須賀(神奈川県)や佐世保(長崎)および航空自衛隊と米空軍が置かれる横田飛行場(東京都)なども主に補給の拠点として利用されています。戦地で負傷した米兵の多くが首都圏の病院に運び込まれました。武器こそ提供しなかったものの、米軍のベトナム滞在に必要な日用品や軍事転用が可能な原料なども運ばれました。ベトナム反戦が米本土でも盛り上がった時期はちょうど日米安全保障条約改定の1970年と重なり、激しい学生運動が起きもしました。 サイゴン陥落以降は、共産主義国家に不安を抱いた人々が難民として多く日本にも訪れました。社会主義共和国の建国後も、急速な体制変化や中国、カンボジアなどと紛争を抱えたベトナムなどから80年代に入っても難民が現れています。こうした「インドシナ難民」は日本で受け入れただけで約1万1000人に上ります。
--------------------------------------------------- ■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て現在、早稲田塾論文科講師、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など。【早稲田塾公式サイト】