【プロ1年目物語】「周りが加熱し過ぎると、僕はかえって冷める」新人記録を塗り替える打率.327、異端のヒットマシーン坪井智哉
「一番・右翼」に定着した夏場以降も打率3割台をキープすると、8月27日の横浜戦で規定打席に到達。打率.318でいきなりリーグ打率3位に顔を出す。8月29、30日の巨人戦では連夜の猛打賞。阪神では岡田彰布以来の新人100安打を記録して、打率.327にまで上昇する。この頃、にわかに史上初の新人首位打者の可能性も騒がれ出す。最下位に沈む阪神ファンのほとんど唯一の希望の光が、坪井のバットだったのだ。 その渦中の「週刊ベースボール」98年9月28日号では、タイトルレース真っ只中の若虎一番星インタビューが掲載されるも、「最近規定打席に達したからといっても、それは、マラソンレースに途中から走り出したようなもの」とまたも坪井節。1998年当時、スポーツ界ではサッカーの中田英寿がメディアに対する不信感を強め、自らの公式ホームページで情報発信をする先駆者となったが、坪井もまた予定調和の受け答えを嫌う新世代のプロ野球選手だった。 「周りが加熱し過ぎると、僕の方はかえって冷めてくるんです。だから、テレビとか新聞ではあまり期待しないでくださいと言ってます。もともと周りの言うことは気にしない性格ですけど、何とか気にさせようとされるんでね。メディア的には首位打者や、新人王を狙いますよって言わせれば面白くなるから。つまんない言い方かもしれないけど、僕としては“勘弁してください”です」
引退後に口にした本音
最終的に1年目の坪井は岡田の109安打、吉田義男の119安打を大きく塗り替える球団新人最多の年間135本のヒットを積み重ねる。123試合で打率.327、2本塁打、21打点、7盗塁。固め打ちも多く11度の猛打賞を記録。走力も武器で併殺打は年間を通して0だった。打撃ベストテンでは鈴木尚典(横浜)、前田智徳(広島)に次ぐリーグ3位にランクイン。2リーグ制後では1954年広岡達朗(巨人)の打率.314を大きく上回る、ルーキー最高打率となった。新人王こそ14勝を挙げた川上に譲ったものの、坪井は高橋や小林とともにセ・リーグ連盟特別表彰を受けた。 そつなく淡々と結果を残していたように見えた背番号32だが、9月9日の中日戦前には報道陣に向かって「ホンマ、邪魔なんや」と吐き捨てたことが問題視されるなど、慣れない取材攻勢に心身ともに疲れ切っていた。1年目のシーズンを完走すると、「本当にやっと終わった。長かった」と半端ない疲労感が襲ってきたという。 その後、坪井は2年目の99年も打率.304で2年連続3割をクリア。日本ハムへ移籍した2003年には自己最高の打率.330をマークする。11年にオリックスを戦力外になると、アメリカの独立リーグで40歳までプレーを続けた異端のヒットマシーン。若手時代はクールな男を演じていた裏で、心の奥底には燃えるような野球への情熱があった。現役引退を決断した2014年夏、「週刊ベースボール」14年9月8日号の惜別球人インタビューで、戦いを終えた坪井はこんな言葉を口にしている。 「僕は弱い人間なので、活字になったモノを目にしてしまうと、人より落ち込み度が高いと思う。自分を守るために本音は言いませんでした」 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール