尼君の最期と、遺された姫君へ募る光源氏の思い 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫⑦
それに対して女房が、 「もう何もおわかりにならない様子で、ぐっすりとお休みになっておりますので」と答えるが、ちょうどその折しも、向こうからやってくる足音がし、続けて、 「おばあさま、北山のお寺にいらした源氏の君がいらっしゃったのですって。どうしてご覧にならないの」と幼い声がする。女房たちはひどく決まり悪そうに、 「しっ、お声が大きいですよ」と制するが、 「あら、だって、源氏の君をご覧になったら気分の悪いのもすっかりよくなったとおっしゃっていたじゃないの」と、得意げになって言うのが聞こえる。
光君はそれを聞いてたまらなくかわいく思うが、女房たちが困り切っているので、聞かなかったふりをして、生真面目なお見舞いの言葉を述べて帰ることにした。なるほど、まったく子どもっぽいなと思うが、同時に、自分でみごとに教え育てたいと思うのだった。 その翌日も、光君はじつにていねいにお見舞いの手紙を送った。いつものようにちいさな結び文に、 「いはけなき鶴(たづ)の一声(ひとこゑ)聞きしより葦間(あしま)になづむ舟ぞえならぬ
(あどけない鶴の一声を聞きましてから、葦のあいだを行き悩む舟は、ただならぬ思いでおります) いつまでも慕い続けるだけなのでしょうか」 と、わざと子どもっぽく書いてあるが、それでもやはりじつに立派なので、「このまま姫君のお手本になさいませ」と女房たちは言い合っている。 少納言から光君に返事があった。 「お見舞いいただきました尼君は、今日一日も持ちそうにない有様でございます。これから山寺に引き移るところでございます。わざわざお見舞いいただきましたお礼は、あの世からでも申し上げることになりましょう」
それを読み、光君の心はひどくざわめいた。ちょうど秋の夕暮れで、心を休めるひまもないほど恋い焦がれるあの方をいっそう思う光君は、そのゆかりの少女を無理してでも手に入れたいという気持ちも募るようである。北山の寺で、「露のような身の私は消えようにも消える空がありません」と尼君が詠んだ夕べを思い出し、あの少女を恋しくも思い、また、ともに暮らしたら期待外れもあろうかとさすがに不安にもなる。 手に摘(つ)みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺(のべ)の若草