尼君の最期と、遺された姫君へ募る光源氏の思い 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫⑦
「それは困ったことです。このところ、尼君はすっかり回復の見込みもおぼつかなくなっておられますので、お目にかかることもできますまい」 と言うが、帰ってもらうのも畏れ多いことだと南の廂(ひさし)の間を取り片づけて、光君を案内した。 「むさくるしいところではございますが、せめてお見舞いのお礼だけでも申し上げたいとのことです。ぶしつけに、こんな奥まったうっとうしいところでございますが」 と女房が言い、確かにこうしたところはあまり見たことがないと光君は思う。
「いつもお伺いしようと思いながら、すげなくされるばかりなので、遠慮しておりました。ご病気が重いことも伺っていなかったのは、うかつなことです」と光君が言うと、 「気分のすぐれないのはいつものことでございますが、もういよいよという有様になりまして……。畏れ多くもお立ち寄りくださいましたのに、直接ご挨拶申し上げることもできません。仰せになられます例の件ですが、万が一お気持ちが変わらないようでございましたら、このようにたわいない年頃が過ぎましてから、かならずお目をかけてやってくださいませ。たいそう心細い有様のままこの世に残して参りますのが、往生の障りと思われることでしょう」
との尼君の言葉である。 ■「あの子の声を、どうか一声でも」 病床がすぐ近くらしく、尼君の心細げな声がとぎれとぎれに聞こえてくる。 「本当に畏れ多いことでございます。せめて姫君が、お礼の一言でも申し上げられる年齢でしたら……」と尼君は女房に漏らしている。それをしみじみと悲しく聞き、君は言った。 「いい加減な気持ちでしたら、こんな奇異にも思われかねない振る舞いをお見せするものですか。どのような前世の因縁なのか、はじめてお見受けした時から、不思議なほど、心からいとしくお思い申し上げております。この世だけのご縁とは思えないのです。ここへ来た甲斐もないように思えてなりません、あのかわいらしい子のお声を、どうか一声でも」