会社員からのライフシフト、「生涯かけて全うしたい」と掴んだのは伝統工芸・伊勢型紙職人という仕事
三重県鈴鹿市に古くから受け継がれてきた、国指定の伝統的工芸品である伊勢型紙。和紙に小刀で彫り抜かれた細かな模様は、一見、手作業とは思えないほど美しく繊細だ。そんな伊勢型紙に魅了され、伝統工芸の世界へと身を投じた那須恵子さんのライフシフトのストーリーをお届けする。 【もっと写真を見る】
安定した会社員という生き方を捨て、何か一つのことを死ぬまで突き詰めたいと伊勢型紙(いせかたがみ)の職人へとライフシフトした「型屋2110(カタヤ ニイチイチゼロ)」の那須恵子さん。伊勢型紙とは着物や浴衣といった布のほか、紙、革などに模様を染める道具のこと。型地紙(かたじかみ)と呼ばれる和紙を加工した紙に小刀を用い、細かな文様や図柄を丹念に彫り抜いたものだ。1000年以上の歴史を持つ国の伝統的工芸品であり、伊勢型紙技術保存会が伊勢型紙の重要無形文化財保持団体としても認定されている。 しかしながら多くの伝統工芸と同じく、伊勢型紙も染色技術の進化による需要の減少などを理由に、後継者不足といった問題を抱えている。そんな伝統工芸の世界で職人として日々邁進しながら、伊勢型紙の普及にも余念がない那須さんに話を聞いた。 ひと目で高い技と美しさに度肝を抜かれた伊勢型紙の職人になるべく獅子奮迅 1982年岐阜県生まれの那須恵子さんは地元の工業高校でデザインを学び、毎年、同校の卒業生が数人就職する地元の印刷会社へ入社。学校に勧められるがまま、なんの苦労もなく、まるで〝スライドする〟ように就職したという。同社では冊子やポスター、パッケージなど、印刷物に掲載するイラストをペンやインク、デジタルに加え、ペーパークラフトでも制作。もともと絵を描いたりと創作が好きだったため楽しく仕事をしていた那須さんだが、徐々にその働き方に疑問を抱きはじめた。 「好きなことを仕事にできていただけに、安穏と過ごしすぎてしまったというか。自分の成長を感じられないことに、ある時気づいたんです。また、当時は女性の管理職がまだ不在だったということもあり、そのまま自分が定年まで勤めるイメージも湧いてこなくて。好きだし、自分に向いている仕事だけど、この会社で死ぬまでこの仕事ができるわけじゃないんだなと」 もともと何か一つのことを突き詰め、一生を通して仕事として続けていきたいと考えていた那須さんは、8年間務めた会社を退職。新たな道を模索しはじめた。 「次の仕事は、生涯かけて全うするものにしたいと思ったのですが、それって自分が好きなことでなければ一生続けるのは難しいよなぁと。だから、改めて自分が本当にしたいこととは何かについて考えたんです。手先を使って、1人黙々とできて、グラフィカルなものそうだ、伝統工芸だ!と気づき。そこで、京都や東京で木版画や唐紙、羽子板などを見たり、体験したりと、いろいろなお店や工房をまわりました。そんなある日、友人が雑誌に掲載されていた伊勢型紙を『あなたに向いてそう』と見せてくれたんですね。会社員時代に担当したペーパークラフトで腕に覚えがあっただけに、その伊勢型紙の〝紙を切る〟という、とんでもない高い技と美しさに度肝を抜かれました。すぐさま産地である三重県鈴鹿市に向かい、実物を見て、『これだ!これしかない!』と確信。この時の胸のドキドキと感動は、一生忘れることはないと思います」 運命的な伊勢型紙との出会いに居ても立っても居られなくなった那須さん。鈴鹿市の伊勢型紙に関する施設に足を運ぶなどしてみるも困った顔をされるばかりで、どうすれば職人になれるのか、その糸口を見つけることができなかった。そんななか唯一、那須さんの話に耳を傾けてくれたのが、伊勢型紙の商品や材料となる型地紙の製造・販売をする「おおすぎ型紙工業」の社長だったという。 「やりたいことは決まったのに修業をすることすらできないそんな悶々としていたころ、『おおすぎ型紙工業』の社長さんに相談するようになって。『趣味ではなく、職人になりたいんです』って、電話したり手紙を書いたりと頻繁に連絡をしていました。でも、なかなか修業するにいたらず、とうとう痺れを切らしまして、自宅で勝手に自主練を始めようとしたんです。そうしたら、社長さんに慌てて止められて(笑)。『まずは職人さんに、道具選びだけでも相談しましょう』と」 勇み足的に独学で修業を始めようとした那須さんが紹介されたのは、のちの師匠となる型紙職人の生田嘉範さん。最初は伊勢型紙の道具である砥石と小刀を選んでもらうだけのつもりだったが、いざ生田さんの家に連れて行ってもらうと、そこには〝アテバ〟と呼ばれる作業台が用意してあった。この機を逃してはならぬとばかりに、那須さんはすぐに岐阜県から鈴鹿市へと身一つで移住。ようやく修業が始まった。28歳にして伝統工芸の職人へ弟子入りという、そんな彼女に対して家族や友人はどんな反応だったのだろうか。 「そもそもで、修業をしたいと口にしながら始められなかった理由は、伊勢型紙が斜陽産業であること以外なかったわけでして。そんな愚痴を日々聞かされていた母親は、修業先が決まっても渋い顔をしていました(笑)。友人たちは似た者同士というか、元来やりたいことをとことんやるタイプばかり。私が会社員を辞めて伝統工芸に就きたいのを全力で応援してくれ、一緒に探してくれるほど協力的でした。ほかでもない伊勢型紙も、そんな友人の1人が教えてくれたおかげで出会うことができたので」 念願かなっての修業が始まった那須さんだが、想定外のことがあったという。会社員時代にペーパークラフト制作でカッターナイフの扱いに慣れていたはずしかし、小刀では勝手が違い、修業を開始した当初はその扱いに苦戦したというのだ。 「刃物の使い方が下手になり、焦った思い出があります。私が師匠に教わったのは、紙を小刀で突くように彫っていく〝突彫り(つきぼり) 〟という技法。この〝突彫り〟は独特な小刀を使い、独特な持ち方、動かし方をするため、右手を支える薬指が短くなる悪夢を見たこともありました(笑)」 初めて触れる道具の扱いに四苦八苦しながらも順調に修業進めていった那須さんだが、始めてから数年は無収入。そのため「おおすぎ型紙工業」の社長の厚意により、同店でパートとして勤務できることに。そして、修業を始めて1年ほど経ったある日、師匠より思いもよらぬ言葉が飛び出したという。 「夕方までパートで週4日ほど働いた後、ほぼ毎日、親方の家に行くというスケジュールでした。そんなある日、親方より『そろそろ卒業してくれないだろうか』と言われまして。どうやら私が趣味の延長で習ってると思っていたらしく、1年ぐらいで満足するだろうと考えていたようです。もちろん、私は本気で仕事にするつもりでいたので、『今ここで見放されては困ります!』と必死で説得をしました。生田さんは観念したのか、『好きなようにしたらいいよ』と(笑)。その後は、それまで以上に支えてくださいました」 あやうく1年で修業が終了するかもしれなかったが、その熱い思いが伝わり、その後も〝アテバ〟を生田さんと並べながら技を習得していった。 「修業2年目ぐらいからは、親方のお仕事の手伝いとして実践で覚えさせてもらいつつ、作業をした分の賃金をいただけるように。そして、修業開始から6年後に親方の工房をお借りしながら、自分で獲得した仕事をする工房内独立としてひとり立ちしました」 自分が伊勢型紙に心を動かされたように、いずれは見る者を感動させたい 徒弟制度が続いていたころは、5年ほどの修業の後、師匠より一部得意先を分けてもらいつつ独立するのが一般的だったという伊勢型紙の世界。那須さんはどのように仕事を獲得していったのだろうか。 「本来、伊勢型紙の職人は営業に出ることはほとんどありません。でも、私はこの業界の仕事が少ないと聞いていたので、修業の2~3年目ぐらいから機会があれば関東の染屋さん(染色加工業者)に出向いてお話を聞いたり、着物関係のイベントに参加したりして、お得意先を作りました。また、日々の修業や仕事の様子を SNSで発信、HPやリーフレットなどの営業ツールを活用しているほか、積極的に取材対応もすることで、わずかではありますが知名度がアップ。呉服関係以外の方からもオリジナル商品の製作や、ハンドメイドキットの監修、型紙ワークショップの要請など、さまざまなご依頼をいただけるようになりました」 独立前から精力的に営業を行ったおかげで仕事を定期的に獲得し、現在は伊勢型紙に集中して活動を続けている那須さん。工房内独立をしたタイミングでパートタイムでの仕事も辞めたそうだが、生計は成り立っているのだろうか。 「型紙で生計がたてられているのかどうかと言われると、預金の残高を見るにおそらくギリギリ暮らせている程度ですが、なんとかなっています(笑)。私の場合は、親方に物心ともに助けられて過ごしてきましたので、ほかの修業している若手に比べて随分と生活費が抑えられているはずです」 収入面に関してはやや心もとない様子だが、これについては伊勢型紙に限らず、多くの伝統工芸の世界で問題になっている点だろう。 「職人に支払われる対価が昔の相場のままということを得意先によっては、たびたび感じることがあります。このご時世ですから、相場を上げていただかないと、これから職人を目指そうという若者にはかなり厳しいのではないでしょうか」 事実、那須さんが修業を始めた当初、伊勢型紙の技術を継承する公式な組織で型紙を学んでいる人はほかにもいたが、職人として独立した人は一人もいなかった。それどころか、産地に歳の近い後継者すら一人もいなかったということに、那須さんは随分と驚いたそう。そして、現在、伊勢型紙の本拠地である鈴鹿には、熟練層の職人が20人ほどいて、そのいずれも着物の型紙の仕事が当たり前にあったころからの現役だ。 「熟練層の平均年齢は70代後半で、バリバリ働けるというわけではありません。そして、現時点でも内弟子として、個人的に弟子を抱える職人はいません。奇跡的に弟子入りできた私と、後輩の2人も2年前に親方を亡くし、内弟子を抱える伊勢型紙の職人はいなくなってしまいました。現在、修業したい若手を定期的に受け入れているのは、伊勢型紙技術保存会だけです。そして、私を含めて若手で職人として本業としているのは4人ほど、技術はあるけど仕事を始めたばかりという人が7人ほどいます。型紙全体で言えばほかにも各地に職人はいますが、伊勢型紙に絞って言えば、かなり人数が少ないですよね」 こういった後継者不足に加え、現在の伊勢型紙が抱える問題について「需要の減少が何よりだと」と那須さんは語る。 「伊勢型紙の材料と技術は着物や手ぬぐい、唐紙や印伝など、工芸職人を支える染色用の道具のためのもの。その部分は決してなくしてはいけない部分だと思っています。そのうえで、まずは染め型紙に対して、『これからの若手が仕事をしやすいような注文システムが作れたらいいのにね』とよく話しています。また、染色道具以外にも、あらゆる技術が発展した現代において、あえて職人が和紙に模様を手彫りする美しさや柔らかさなどの価値をきちんと伝え、活用した需要の開拓ももっと必要だと思っています。需要さえ増えれば、若手は育つはずです。染め型紙の仕事を支えるためにも、それ以外の需要の裾野を広げ、しかもそれが伊勢型紙の普及や振興にもつながるアイテムやサービスとなればもっといいなと」 このままでは伊勢型紙の業界が先細ってしまうそんな現状を打破すべく、自分になにかできることはないかと考えた那須さん。「本当は外に出る活動は苦手だった」そうだが、伊勢型紙の魅力を広く発信するため精力的に活動をしている。 「伊勢型紙の普及のための講演や展示会のほか、職人グループ活動でラジオ番組風の生配信を定期的に実施するなど、伝統工芸の発信に努めています。伊勢型紙振興とまちおこしを兼ねたNPO法人では広報を務め、鈴鹿市への来訪者を増やすだけでなく、地元の方にももっと伊勢型紙の魅力を広げようと展示会やコンテストなど、さまざまな企画を実施。商品の販売も伊勢型紙普及のためのコミュニケーションとして、オリジナル商品の制作販売もしています」 安定した会社員から伝統工芸の職人へライフシフトをしてよかったことはどんなことだろうか。また今後の目標についても聞いてみた。 「やはり自分がやっていて一番楽しいことが、結果として工芸職人を支えるという誇らしい仕事であることです。そして、心から尊敬できる人と出会い、学ぶことができたということにも感謝しています。親方をはじめ、私のわがままのようなやりたい!という気持ちに対し、本気で向き合ってくれる人に何人も出会えました。これは何よりの財産だと思っています。職人としての目標は、親方の技術に追いつけるよう50代の終わりぐらいまでにできる限り難しい小紋型に挑戦しておくこと。小紋型紙の美しさや技術の高さに心を奪われてこの業界に飛び込んできたので、人に感動してもらえるレベルまで極めないと、伊勢型紙は生き残れないと考えているからです。あとは、そろそろいい年なので真剣に健康管理をしていかねばと考えています(笑)」 伊勢型紙に出会い、そして心から惚れ込み、職人としての技術を極めようと、歩を緩めることなく突き進んでいる那須さん。これからライフシフトをしたいという同年代の女性に向けてメッセージをお願いすると、「私は深く考えない質だからこそ、ここまでやってこれた人間です。人様に下手なことは言えないのですが、それでもあえて言うのであれば」と前置きをしつつ、こんな言葉をくれた。 「自分がどうしてもやりたいと思って始めたことでも、続ける中で壁にぶつかり、苦しい経験をすることもあるはずです。それを乗り越える燃料は、ひたすらそのことが大好きだ!!!!!という気持ちしかないかなと。胸が震えてなぜか涙が出そうになる、そんな心の底から大好きなものに一生にひとつでも出会うことができたら幸せですよね。だから私は決して経済的に余裕のある暮らしではないけれども、この仕事をしている限りは幸せだと、勝手に思っています(笑)。そこから何か汲みとっていただけましたら幸いです」 文● 杉山幸恵