阪神・藤川球児新監督が明かす「史上最速1000奪三振」達成の年にグラブに刻んだ「3文字」の言葉
本気で引退を考えていた
金本監督が僕に期待したのは、先発投手としての役割だった。ただ、チーム事情や僕のコンディション次第でリリーバーに起用される可能性があることは、当初から僕にもわかっていた。チームに貢献できるのなら、どういう役割を与えられても投げるつもりでいた。 先発のマウンドは星野監督の時代以来となるが、ブランクの長さをカバーするだけの経験は積んでいた。翌2016年の開幕を間近に控えたころ、オープン戦で先発のマウンドに立ってみると、リリーバーとは違う独特の感覚がよみがえってきて、僕はどうにかやっていけそうな気がした。 復帰後、はじめての登板となったのは、中日との開幕3連戦の最終日だった。 2003年9月以来、12年半ぶりの先発マウンドである。不安もあったが、僕はひそかな手応えを感じていた。 しかし、思うような結果は出せなかった。88球を投げて4点を失い、僕は5回で降板した。 その1週間後、僕は対横浜戦で復帰後初勝利をあげた。だが、もともとスロースターターで、春先には出遅れがちだったこともあり、その後はなかなか調子が上がらなかった。 先発のリズムをつかみ切れずにいるうち、クローザーだったマルコス・マテオとラファエル・ドリスが戦列を離れ、5月半ばからはリリーバーに転じた。それ以降、僕は状況に応じて中継ぎと抑えを任されるようになった。 夏になると、甲子園での16試合連続無失点という記録は残せたものの、自分のプレーにもどかしさを感じる場面が少なくなかった。 そして、最後まで波に乗り切れないまま、そのシーズンが終わった。5勝6敗3セーブ10ホールドという平凡な成績だった。 じつは、このとき僕は本気で引退を考えていた。もちろん、それまでも僕は自分のボールに納得ができなくなれば、いつでもやめる覚悟ではいた。だが、このシーズンの僕は自分の限界を意識するより、自分の立場が気になってしかたがなかった。 自分がチームの負担になってしまったように思えてならなかったのである。仲間に迷惑をかけるくらいなら、一刻も早くチームを去りたかった。