【本日最終回】「光る君へ」が描かなかった「刀伊の入寇」の背景と藤原頼通のその後
この間、京の朝廷では寺社に祈禱を命じただけで、撃退後の論功行賞も形式的なものに終わった。刀伊の入寇は平安貴族の対外危機や地方行政への無関心が露呈した事件でもあり、「光る君へ」では、こうした対応に藤原道長や藤原実資が嘆息する場面が描かれた。 この時の摂政は、道長の後を継いだ嫡男・藤原頼通。当時最年少の25歳で摂政となって以後、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇、50年にわたって摂政・関白を務め、摂関在任の最長記録を打ち立てた人物だ。しかし従来、頼通の時代は、道長の政権の延長線上に位置付けられ、高い評価は受けてこなかった。 理由の一つに外戚政策の失敗がある。入内した娘が皇子を生まなかったため、天皇との新たな外戚関係を築けず、摂関家の衰退を招いた。 政策の面でも多くの課題を抱えていた。道長死去の翌1028(長元1)年、関東で平忠常の乱が勃発した。頼通が最初に任命した追討使・平直方が鎮圧に失敗したことから、反乱は3年間も続き房総半島は荒廃した。また、中央でも延暦寺と園城寺の対立が激化するなど、宗教政策においても厳しい対応を迫られた。 ただ、近年は頼通の治世を再評価する声も高い。例えば、頼通は歌壇の庇護者として歌合を催すなど文化面で主導的な役割を果たした。また、宇治の別荘を改めて創建した平等院鳳凰堂は、建築史において重要な位置を占めている。 50年に及ぶ長期政権により、道長・頼通の子孫が、天皇との外戚関係に関わりなく摂関となる慣例が生まれ、名実ともに摂関家が成立したのもこの時代だ。以後、豊臣氏の武家関白を除いて、明治維新まで頼通の子孫が摂関を継承していった。 この時代は荘園の増加により財政が悪化したため、たびたび荘園整理令が出されたが、頼通政権が示した基準は以後の整理令にも適用された。また、内裏再建費用などの財源を公領と荘園から一律に課税する一国平均役も始まった。来るべき中世は、頼通の時代に準備されていたのである。 (構成 生活・文化編集部 上原千穂 永井優希)