石臼で豆を挽き...神戸に復刻した「日本最古のコーヒー」の味
日本最古のコーヒー店を探して
日本でのコーヒーの普及は開国後、西洋料理などの欧米文化の導入が図られた文明開化の時代を待たねばならなかった。そのなかで最初期の本格的喫茶店として名前が挙げられる「可否(カヒー)茶館」はやはり特筆すべき存在である。 明治21年(1888)4月に東京上野西黒門町(現在の台東区上野1丁目)に開業した可否茶館は、青ペンキ塗りの2階建て洋館で、館内に内外の雑誌を取りそろえ、玉突き場、文房室や化粧室も設けた充実したコーヒー店であった。 主人は鄭永慶(ていえいけい)といい、中国語・仏語・英語に通じた国際人で大蔵省に勤務したが、辞職して三十歳で開業。文化人や芸術家の交流サロンであった欧米のコーヒーハウスをモデルとした意欲的事業であり、ハイカラ文化に焦がれる学生たちがここに集ったという。 しかし、永慶が投資に失敗し、4年ほどで閉店。永慶は密航してアメリカ・シアトルに渡り、明治27年7月にかの地で没した。 可否茶館に先駆けること10年、明治11年(1878)12月26日、読売新聞夕刊の紙面下段に一つの広告が掲載された。「焦製飲料コフイー 弊店にて御飲用あるいは粉にてお求めともに御自由」の見出し。 本文はコーヒーの来歴を紹介するとともに、用法について解説。「神戸元町三丁目の茶商 放香堂謹んでもうす」と結ぶ。横浜には開港以来、コーヒー豆の輸入販売を行う外国人経営の店があったが、店内で喫茶できるとした資料はなく、この広告を出した「放香堂」は、最古のコーヒー店と考えられる。 「放香堂」とは、現在も神戸市中央区元町通3丁目に本店を構える宇治茶の老舗である。天保年間(1830~1843)に山城国東和束村(現在の京都府和束町)で自家茶園をもって創業。 全国一円に卸売りを行い、安政5年(1858)には江戸にて大名家の御用商人となり、屋号をいただいたという。慶応3年(1867)、開港にあわせて神戸に海外へ茶を輸出するための商館を設け、輸出時に使用した茶壺にコーヒー豆を詰めて輸入も手掛けるようになった。 明治7年(1874)には外国人居留地に近い元町通に店舗を開店。茶とともにコーヒーの粉を販売し、喫茶もできるようにしたとみえる。 明治15年(1882)に刊行の神戸兵庫の企業名鑑『豪商 神兵 湊の魁』には、放香堂の店舗の絵図が掲載されている。描かれた店舗は喫茶店のイメージとはほど遠い和風の商家だが、茶器を前にして座敷に座る客人の姿もあり、コーヒーもこうして提供されたのであろう。 子会社を通してコーヒーなどの貿易事業を引き継いできた放香堂だが、2017年の神戸開港150年を前に平成27年(2015)10月にコーヒー専門店「放香堂加琲」を本店の一部を改装して開業。その目玉として、日本最古のコーヒーの復刻に取り組む。 神戸海軍操練所を開設するなど、神戸港ゆかりの勝海舟の通称にちなんで「麟太郎」と名付けられたそのコーヒーは、明治期に輸入していたインド産アラビカ種の豆にこだわり、当時はコーヒーミルがなく、石臼で挽いていたことからこれも再現。 また、淹れるのも一般的なドリップ式ではなく、当時の方法に近いフレンチプレスを採用している。 石臼で挽いたコーヒー豆は粒の大小にばらつきがあり、またフレンチプレスで抽出することで、オイル分とわずかに残る豆の粒子の舌触りが感じられ、コクと苦味が強いが、生き生きと香ばしいコーヒーになっている。
評判について、スタッフの高岡亜由さんに尋ねた。 「オープンして8年を超えて地元の常連の方もできましたが、場所柄、外国からの方をはじめとした観光にあわせての来店が多いですね。やはり『日本最古のコーヒー』ということにひかれて来られる人が多いと感じます」。 まさに「温故知新」、国際港湾都市神戸の歴史に思いをはせる新たなアイテムとなっているようである。店頭でのテイクアウトも可能ということで、近くの旧居留地や南京町の風情を楽しみながら味わいたい。
兼田由紀夫(フリー編集者)