「授業をサボる大学生」だった私が「教授」になって思うこと 「人間が成長する」とはどういうことなのか?
桜は何十年ものあいだ、春になると、同じ場所で、同じようにツボミをつけ、花を咲かせる。 この繰り返される自然の単純なリズムに対して、私たち人間の心は絶えず変化する。だから、桜が咲き、散るという見慣れた現象が、突然、まったく違って見えるようになる。 これが心の成長なのだ、これが生きているということなのだ……若い私は世紀の大発見をしたような気持ちになり、1人で興奮していた。シュンペーターを読み返しながら、そんな昔の記憶がよみがえってきた。
■古典を通じて成長の足あとを確かめる 古典を読む意味もきっと同じだ。何十年、ときに何百年も昔に書かれた古典の内容は決して変わることがない。いや、不変であるだけでなく、歴史を超える大切な視点があちこちにちりばめられているからこそ、長い期間にわたって人びとから愛され続けている。 変わらないもの、大切な視点が埋め込まれたものを読む。何度も読む。心はざわめく。だが、その「場所」は変化する。私たちは、古典を通じて自分の心の変化の軌跡、成長の足あとを確かめる。こんなところに興味を持っていたんだな、と懐かしく振り返りながら。
自分とはいかなる存在なのかを知るうえで、人生の「定点観測」が必要なのかもしれない。 私たちは、どうしても、他者と比較して、自分の価値を評価してしまう。慶應に来た理由を学生たちに問えば、彼ら/彼女らは気の利いた答えを探すだろう。だが、多くの学生の本音は、「みんながいい大学だと言っているから」なのだと思う。 だが、「他者」という移ろいゆくもの、変化するものと比較し、その勝ち負けに不安を覚えるのではなく、変わらないものとの対比で、自分の絶対的な成長や変化を実感し、自分が生きてきたことの価値を確信する方法もある。
他者と比べられるもののほとんどは、数的、量的なものだ。背の高さや足の速さはもちろん、学歴、肩書き、社会的な地位もまた、偏差値や年収などの数や量を反映している。生産性と呼ばれるものはその最たるものだ。 一方、私たちが生きる社会は、質的に異なる人びとでできている。だからこそ、互いの価値を私たちは尊重しなければいけないし、他者を尊重するから自分も尊重してもらえる。相互尊重があるから、お互いの理解が深まり、社会の分断も解消できる。