豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった【投資の日本史】
「豊臣家臣団」の分裂を招いた「朝鮮出兵」の失敗
秀吉の目算では明の征服は容易なはずだった。東アジアの中でいち早く鉄砲の有効活用に成功した事実に加え、激しい内戦を経験した武家の国にとって、文官を優位に置き、武官を蔑ろにする明を屈服させるのはわけないことと、相手を侮る気持ちが強かったからで、明と同じく文官優位の朝鮮王朝に対する感情も同じだった。投資の観点から見れば、東アジア世界に君臨するという大きなリターンに比して、リスクは低いと考えていたのだ。 果たして、開戦当初は日本軍が連戦連勝。朝鮮の正規軍は敗走を重ねるばかりだったが、全国各地で義兵が抵抗に立ち上がり、明からの援軍も到着、さらに朝鮮水軍による組織的な反撃が始まると、日本軍から楽勝ムードが消え去った。 制海権を失ってからは補給が途絶えがちで、死傷者の数もうなぎ上りに増え続けた。実際に海を渡ったのは西国大名の将兵だったから、秀吉による朝鮮出兵は外様か秀吉子飼いかに関係なく、西国大名全体の力を削ぐ消耗戦の様相を呈するようになった。 それに対して、徳川家康や前田利家、伊達政宗などの東国大名は肥前名護屋城に待機で、後方予備軍に位置付けられながら、当人たちに渡海する意思はなく、秀吉も彼らにそれを求めようとはしなかった。 秀吉があと数年存命であれば、東国大名にも渡海が命じられた可能性もあるが、秀吉の死により停戦が急がれたため、家康ら東国大名は1兵も損なうことなく帰途に就くことができた。 それとは対照的だったのが秀吉子飼いの家臣たちだ。最前線で何度も死線を潜り抜けた福島正則や加藤清正ら武闘派と、補給と監察を任務とした石田三成ら吏僚派は犬猿の仲となり、大名たちが伏見に戻ってからというもの、いつ武力衝突が起きてもおかしくない状態が続いた。 その後の歴史が示すように、豊臣家臣団の分裂は関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけただけでなく、豊臣家の滅亡にもつながった。分裂を巧みに利用した家康を誉めるべきかもしれないが、それよりも豊臣の天下が秀吉個人のカリスマ性にいかに依存していたか、秀吉の存在がいかに巨大であったか、改めて痛感させられる。