豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった【投資の日本史】
イエズス会宣教師に明かしていた「明征服・秀吉の野望」
商圏は広ければ広いほど利益も大きく、日本一国で完結させるのは惜しすぎる。室町幕府が行なった日明貿易(勘合貿易)はもとより、秀吉の時代よりおよそ半世紀前に始まる南蛮貿易でも大きな利益があがっている。南蛮船と南蛮商人頼みではなく、日本の商人が国産の商船で海外へ出向き直接取り引きできるようになれば、利益はさらに上積みされる。船が来るのを待つのではなく、日本から出向いたらどうなるか。さらに進んで海外の物流拠点や硝石、鉛などの産地を掌握すれば、世界で敵なしの財力と武力をも手中にできるのではないか──。秀吉の構想はこのように膨らんでいったものと推測される。 秀吉が明征服の意思を表明した最も古い資料は、関白になった直後の天正13年(1585年)9月、直臣の一柳市介(直末)宛てに記した書状だった。これ以降、事あるごとに人にも語るようになった。次の年、イエズス会準管区長のガスパル・コエリョが大坂城を訪れた際には、「国内を平定したら日本を弟の秀長に譲り、自分は朝鮮・中国の征服に専念したい」「古来日本の治者が企て及ばなかったことをあえてやり、後世に名を残すことが自分の目的」とも口にしていたという。 これらは小田原北条氏や東北の諸大名がまだ健在で、秀吉が四国平定を終えて次に九州への出兵を控えた時期の発言である。秀吉の海外派兵の目的を、「服属した大名に分け与える土地が国内では調達できないから」「戦場での略奪を生きる手段としてきた雑兵たちに実利とエネルギー発散の場所を与えるため」などとしてきた従来の定説・俗説は修正を迫られることになるだろう。 この根本的な問題について、中世史を専門とする池上裕子(成蹊大学名誉教授)は著書『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』(講談社学術文庫)の中で、〈秀吉は明を頂点とした東アジアの朝貢貿易体制(冊封体制)が破綻していることを十分認識しており、明にとってかわることを明確な政治的・軍事的目標としいていた〉〈明にとってかわって東アジア世界の中核に日本とみずからを位置づけようとしていた。これが秀吉の外交政策であった。冊封体制の組みかえを意図したものであり、通交貿易体制の掌握をめざしたものだった〉との見解を示している。これには少し補足説明が必要だろう。