豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった【投資の日本史】
秀吉の「明征服」の目的は「東アジア世界での君臨」だった
明帝国は私的な海外渡航や貿易を禁止する海禁を国策としながら、東アジアと東南アジア諸国にしきりと朝貢を要求した。朝貢とは服属の証しとして貢物を献上する儀礼のことで、遠方の国々とっては大変な負担となる。服属を拒否したところで、明がはるばる討伐軍を派遣するとは考えにくかったが、明は歴代の中華王朝が実践したのと同じく、遠方の国々が無理をしてでも朝貢をしたくなる仕掛けを施していた。一言で言うなら「倍返し」である。 献上品に比べ、少なくとも4倍の価値がある下賜品を与える。これこそ明が唯一公認した貿易形態、朝貢貿易の実態だった。純商業的な見地からすれば、明側の完全なる出超(輸出超過)で、何の得にもなっていない。しかし、「中華皇帝の徳を慕うあまり、遠方からも使節の来貢が絶えず、群臣が注視する中で服属儀礼が執行される」ことこそが、明の朝廷にとっては重要だった。 室町幕府の3代将軍足利義満と6代将軍義教も、名より実利を重視する観点からこの冊封体制の一員と化したが、倭寇と総称される私貿易商の活動が盛んになるに伴い、冊封体制は破綻を免れることはできなかった。 秀吉は自分がその体制を再構築しようと図ったわけだが、「倍返し」を踏襲するつもりはなく、日本人として史上初めて、東アジア世界に君臨することを重視していたようである。
「朝鮮出兵」であらわになった「秀吉の本音」
コエリョに対しては、「自分は中国に住むつもりはなく、中国の領土を奪うつもりもない」と語っていた秀吉だが、明への道案内と領内通過を拒否されたことに怒り、朝鮮出兵に踏み切ってから、構想に変化が生じた。否、本音を語り出したと見るべきか、漢城(現・ソウル)占領の報せに舞い上がった秀吉は、京都の留守を託した甥の秀次と前田玄以(五奉行の一人)に宛てた書状の中で、明征服後の構想を披歴している。以下はそれの箇条書きだ。 ●秀次を中国の関白とし、北京の周りで百か国を与える ●後陽成天皇は北京に移し、その周りの国十か国を進上する ●公家衆にも知行を与える ●日本の天皇には皇太子か天皇の弟をあてる ●日本の関白には豊臣秀保(秀吉の姉の子で、秀長の婿養子)か宇喜多秀家(妻が秀吉の養女)を据える ●朝鮮には羽柴秀勝(秀次の弟)か宇喜多秀家、名護屋には小早川秀秋(秀吉の正室の甥)をおく ●秀吉自身はいったん北京に入城した後、江南の寧波に居所を定める 秀吉が居所に選んだ寧波は日明貿易でも利用された港湾都市で、日本と行き来するにも東南アジア諸国と通交するにも都合がよく、東アジア全域に号令を発する場所としても最上の選択と言えた。