年間120日くらい…野宿しながら魚釣りをした経験が活かされた森沢明夫の小説『さやかの寿司』の創作秘話
心温まる人間ドラマの名手・森沢明夫さん。最新刊『さやかの寿司』で描くのは傷を抱えながら生きる人々の心に灯る優しい光だ。 舞台は女大将のさやかが腕を振るう「江戸前夕凪寿司」。個性豊かな常連客と極上の寿司が彩りを添えるこの物語は、どのような思いから生まれたのか。 創作の舞台裏とともに、映画化が決まった『おいしくて泣くとき』についても伺った。
『夕凪寿司』という寿司屋を執筆するうえで、気をつけたこと。
――お寿司屋さんを舞台とした今作。執筆の経緯からお聞かせください。 森沢明夫(以下、森沢) 角川春樹社長から寿司屋を書いてほしいと言われたんですね。和食なら書いてみたいと思い、そうお伝えしたんですが、「寿司だ、寿司にしてくれ」と押されまして(笑)。内心、困ったなと。お寿司って通な人が多いから、ちょっとでも変なことを書くと突っ込まれそうじゃないですか。 ――寿司警察とかいますしね(笑)。 森沢 そうなんですよ。面白そうだとは思いましたが、寿司に関しては知らないことばかり。例えば、職人さんが握った寿司をポンッと置く台、あれは「つけ台」と言いますが、なぜそう呼ぶのかなど基本的な知識もない。専門用語や固有の表現もたくさんあるので、とにかく寿司に関する本を片っ端から読んで頭に入れることから始めて、なんとか行けるかなとなって書くことができました。 ――女性を大将にしたのは? 森沢 これも角川社長からのお話にあったんですが、僕も書くなら女性を大将にしたかった。寿司業界は女性が排除されてきたという歴史がありますが、今という時代を考えれば、そこに新しい風を吹かせる主人公というのはかっこいいと思うんです。 ――店名は「夕凪寿司」。海辺の田舎町の商店街にあるお店です。 森沢 夕方の、風が止んで海がすーっとフラットになるあの時間帯が好きなんですよね。空も優しいピンク色で世界が柔らかさに包まれているみたいで。そんな雰囲気の店にしたかったんです。しかもそこは、飛び切り美味しい店であってほしい。地元の人に愛される繁盛店で、でも観光客もふらっと来るような。となれば、やっぱり海の近くだなと。実は僕の行きつけのお寿司屋さんがまさにそんな感じなんです。 ――大将のさやかが握る「ヒラメの邪道握り」はサンマの脂やキノコの粉末を使うなど独創的でとても美味しそうです。行きつけのお寿司屋さんのメニューですか? 森沢 いえ。魚に関してはオタク的な知識がありまして(笑)。子どもの頃から魚好きで、釣りも好きだったから、学生時代は年間百二十日くらい野宿しながら川や海に潜り、魚を釣っては食べてというのをずっとやっていたんです。知り合った漁師さんに魚にまつわるいろんなことをたくさんたくさん教わりました。小説家になってからも『渚の旅人』というエッセイの企画で、日本中の魚介を食べまくって。そうした経験から得た漁師さんの知恵や技、取材で出会った食のプロの話などを融合させたものですね。 ――さやかの非凡さが伝わる一品だと思います。天才的とも言える腕を持つさやかですが、それ以上にふわふわとした柔らかさが印象的でした。 森沢 キャラクターには長所と短所、両方持たせるようにしています。今回のさやかは心に抱えている傷みたいなものがあるけれど、それを表に出せない短所というか特徴がある一方、頑張りすぎるぐらい頑張れるのが長所です。ただ、キツイ感じにはしたくなかった。その子がいるだけで空間が優しく和むようなお寿司屋さんにしたいと思ったので、ふわふわした綿飴みたいな雰囲気の女性になりました。 ――祖父の伊助さんも癒しの存在ですね。伝説の寿司職人でありながらそれを押し出さず、さやかを見守る優しい眼差しを感じます。 森沢 さやかのおじいちゃんらしいおじいちゃんにしました。「夕凪寿司」という舞台そのものは、ちっちゃな世界にしたかったんですね。それでさやかの両親はすでに亡くなり、祖父と孫だけということにして。店を訪れる人々との関係を通して大きく広がっていく物語にしたいなと思っていました。 ――そんな二人を手伝うのが住み込みで働く未來です。ツンデレぶりがめちゃくちゃキュートで、柔道の猛者でもある。 森沢 さやかがおっとりしているので、キリッとさせたかったんですね。できれば、ちょっと強いくらいにしたい。それで柔道をやっていたということにして。僕の小説って全部繋がってるんですね。ある作品の登場人物がまったく別の作品で大人になって出てくるとか。未來が憧れの先輩として慕う直子さんというのは、『ヒカルの卵』に出てきた直子さんなんです。 ――物語の後半に未來と関わりのある人物として“伝助”の名前が出てきますが……。 森沢 『癒し屋キリコの約束』の伝助さんです。久々に登場させたいなと思い、どういう形がいいだろうかと。彼は不遇の環境にある人々を助ける仕事をしているので、未來にちょっと悲しい境遇を背負ってもらいました。 ――悲しい境遇ということでは、まひろも同様の過去を持っています。 森沢 小説家って哀しいことに、気に入ったキャラクターを不幸にするのが仕事なんです。二人にはつらい過去を背負ってもらいましたが、今回はその背景にある親子関係を書きたいと思っていました。