夢に向かって歩む日々を支えた母の愛と手料理(舞踊歴70年を越えてなお表現を深める日本バレエ界のパイオニア 松山バレエ団プリマバレリーナ・森下洋子)第2回/全5回
バレエ歴70年を超え、今なお舞台に立ち続ける、日本人のバレエの可能性を世界に広げる先駆けとなったプリマバレリーナの森下洋子さん。3歳からバレエをはじめ、すぐにどこでも踊りはじめるほど夢中に。この素晴らしいバレエを一生続けると決め、以来、一度も迷うことなくバレエ一筋に歩んできた。“天才少女”と呼ばれた少女時代、また、日本人のバレエの可能性を広げる活躍をつづけ、長きに亘り高いクオリティのパフォーマンスを発揮し続けるのは並大抵のことではない。舞踊歴70年を超えた今も、舞台に立ち続ける森下さんだが、ストイックな食生活やダイエットとは無縁という。これまでどのようなものを食べ、心身を磨いてきたのか。“食”を通じて森下さんの人生を辿った。
バレエにあげた子
森下さんは、小学3年から――夏休みや冬休みなどの長期休暇を利用して―東京のバレエ学校のレッスンを受け始めた。きっかけは、前年に広島公会堂で開かれた東京のバレエ学校の少女たちが踊る『4羽の白鳥』。 この公演に衝撃を受けた森下さんは、両親に頼み込み、バレエ教室の先生のつてを頼りに東京のバレエ学校に通うようになっていた。 「まだ新幹線が走っていない時代で、広島から東京まで夜行列車で片道約12時間。列車に揺られながら朝を迎えると、車掌さんが食堂車に連れて行ってくれたことが今でも懐かしいです。何を食べたかは覚えていませんけどね」 一方、娘をひとり送り出した両親は気が気ではなかった。家にはまだ電話が通っておらず、バレエ学校から到着を知らせる電報が届くまで両親は一睡もできなかったと、森下さんはだいぶ後になって知ったという。 当時は東京でレッスンを受けることが楽しくて、帰宅しても「またすぐ東京に行きたい」とのめりこむ森下さん。両親は「この子は、バレエにあげた子」と早々に覚悟を決め、東京に送り出していた。
母は、着物に割烹着
「私が小学3年の時、バレエの費用を工面すべく、料理上手な母は洋食店『キッチンもりした』を開業しました。カウンターだけの小さなお店でしたが、たちまち繁盛して、広島カープの選手や他の球団の選手がよく食べに来るようになりました。地元では知られたお店で、それから40年近く続いたんですよ」 森下さんが店の一押しメニューとして挙げたのが牛ヒレステーキ。“コンクールで優勝するような上質なお肉”を仕入れ、塩コショウのシンプルな味付けで、強火で一気に焼き上げる。表面はカリカリ、中はジューシーな絶妙な焼き加減で人気を博した。野球選手らにも大好評で、ひとりで2枚も3枚も平らげる選手もいたという。 「洋食屋なのに、母は着物に割烹着という姿で、その後ろ姿がとても凛として美しかったのを今でも覚えています。私は、お店の2階で母や従業員たちがハンバーグの仕込みをしている隣の4畳半の部屋で、ひたすらバレエの練習をしていました」 「バレエにあげた子」に対し、お金は出すけれど口は一切出さない。その両親の覚悟と、愛情あふれる母の手料理に支えられ、森下さんは大好きなバレエを思う存分踊れる体力を養っていった。 身体もすっかり丈夫になり、バレエへの情熱は高まっていく。そんな中、ついにある決意をする。親元を離れての単身上京。両親も内心不安でいっぱいなものの、反対することなく娘の背中を押した。小学6年生、わずか12歳で森下さんはひとり東京に向かった。