パラリンピックの歴史や精神はスポーツ分野にとどまらない奥深さがある
ラハマン選手は足が不自由で、腰のあたりをベンチにベルトで固定して、上半身だけであげますので、当然健常者より不利なのですが、何と300キロをあげてしまうのです。健常者の選手でも、300キロをあげる人は何人もいません。 ラハマン選手は「健常者だったら300キロをあげられたかどうか分からない」と話していて、「残されたもの」を最大限に生かした結果、失う前よりも能力を発揮したというすごい選手なのです。「障害を負ってかわいそう」などというセンチメンタリズムを吹き飛ばすすごさをパラリンピックは内に持っているのです。 ラハマン選手は東京大会直前に亡くなってしまい、世界中のパラリンピアンやファンが悲しんだことをよく覚えています。 ■日本のパラリンピック選手育成には課題残る 日本の選手はパリ大会で大活躍でしたが、当初は大きな差がありました。先ほど述べたとおり、戦争の負傷兵士のリハビリがパラリンピックの始まりですから、ヨーロッパの選手はもともと屈強な軍人でした。 一方、日本では64年の東京大会当時は、障害者は家で寝ていなさいという感じで、そもそもの体力が違いますし、外国のパラリンピック選手は車いすで銀座などに買い物に行くなど楽しんでいたのに対し、日本では障害者は家にこもっていることが普通でした。 日本は第二次大戦以降戦争をしていませんから、もともとのアスリートが怪我をしたというケース以外は、体力的にそれほど優れていない選手が多かったのは仕方のないことでした。今は、東京にナショナルトレーニングセンターがあり、ここで障害者もトレーニングを積むことができます。これが活躍の背景です。 一方でまだ問題があります。床に傷がつくなどの理由で車いすの競技を許可しない体育館があるなど、決して環境が整っているとはいえません。先日の放送で、サッカーの発展は裾野が広がったところにあるというようなこと言いましたが、裾野を広げるためには、障害者も誰もが、ナショナルトレーニングセンターに来るレベルでない人も、スポーツを楽しめる環境を作ることが欠かせません。
私はメダルの数にはあまり興味がありませんが、こうした点は強調したいと思います。障害の有無にかかわらずどんな人もスポーツを楽しめる権利を持つことは当たり前のことですから、今回のパリパラリンピックを機に、当たり前の環境になることを望むばかりです。 ■◎山本修司(やまもと・しゅうじ) 1962年大分県別府市出身。86年に毎日新聞入社。東京本社社会部長・西部本社編集局長を経て、19年にはオリンピック・パラリンピック室長に就任。22年から西部本社代表、24年から毎日新聞出版・代表取締役社長。
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