パラリンピックの歴史や精神はスポーツ分野にとどまらない奥深さがある
大分県別府市出身の医師・中村裕(なかむら ゆたか)さんは、障害者自立のための施設「太陽の家」を作ったことでも知られています。1964年に東京オリンピックが開かれ、この東京大会が、初めてオリンピックに続いてパラリンピックが開かれた大会となったのですが、これに尽力したのが、中村さんでした。 ここでちょっと、個人的な話も含めて脱線してしまうことをお許しください。太陽の家はオムロンやソニー、三菱商事、ホンダといった企業が出資して、障害者が職業を持って自立する当時としてはかなり画期的な施設なのですが、実は、私の父は毎日新聞の記者で、主に別府で取材活動をしていたときに太陽の家を何度も取材し、中村さんとはとても懇意でした。 父は64年の東京オリンピックで長崎支局から東京に派遣され、陸上競技の取材を担当したので、その面でも話が合ったのだと思います。私はそのとき中学生でしたが、太陽の家のお祭りがある時などに父の取材によくついて行って、お手伝いをしていたので、中村さんと話をしたことがありました。 大分弁で「お前、親父んごと新聞記者になるんか」などと聞かれて、「はあ、そう思うてます」と答えると、「やめとけ。新聞記者やら生活不規則やし、給料もたいしたことねえし、そげな仕事せんで医者になれ」などと言われたものです。 私が毎日新聞でオリンピック・パラリンピック室長を務めるとき、私は事件記者出身でオリンピックの取材をしたこともありませんでしたから「何の縁もない人間がオリパラを担当する」などと言われたものですが、実は結構大きな縁があったわけです。 ■“失う前よりも能力を発揮した”選手 本題に戻りますが、パラリンピックの精神は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」です。例えば右腕を欠損した選手は、残された左腕と足などを最大限に使って競技をします。 中には失ったのにそれ以上の実力を発揮する選手もいます。私がよく覚えているのは、イランのパワーリフティング選手、シアマンド・ラハマン選手です。パラリンピックのパワーリフティングは、仰向けに寝てバーベルを上にさし上げるベンチプレスのことで、大胸筋と上腕三頭筋を主に使うのですが、実際には足を踏ん張って、他の多くの筋肉も使うとより重いウエートをあげることができます。