睡眠制御のメカニズム、覚醒物質に注目 現代社会の難問解決に示唆を与える一冊―上田 泰己『脳は眠りで大進化する』中村 桂子による書評
◆「難攻不落」に新発想で挑んだ軌跡 熱帯夜が続き、寝不足になりがちなこの頃だ。よい睡眠が健全な心身を支えていることは確かだし、多くの生きものたちが寝ているので、これは生きるために不可欠なものだろう。ところが、研究対象としてはなかなかの難物で、近年やっとその意味とメカニズムが解け始めたところなのだ。著者はその最先端を走る研究者の一人である。本書を紹介したいと思ったのは、優れた研究者の現場がていねいに語られているからである。 私たちが持つ、ほぼ24時間周期の体内時計は、各臓器にあって時計遺伝子をもつ時計細胞と、それを調整する脳の中枢時計から成る。この時計は、化学反応で動いているのに、温度によって周期が変わらないのはなぜか。ここで著者は、温度変化に強いリン酸化酵素が時計タンパク質に印をつけたりはずしたりしているからだということを見つける。 こうしてリズム・サイクルの基本が見えたので、「難攻不落の睡眠研究に立ち向かう」のだが、その戦略がユニークだ。遺伝子などの分子、細胞、個体(臓器)の間をつないだ理解には、個体をつくる全細胞のカタログが必要と考え、細胞の透明化に挑戦する。それには「アミノアルコール」処理が有効と分かるまでに、いかほどの物質を調べたことか。透明マウスの写真を見た時の驚きを思い出す。これで全細胞が観察できる目途(めど)がついた。更に、遺伝子改変を交配なしに一世代で検証できる技術、多くの遺伝子を一度に破壊できる技術も開発し、実験のスピードを百倍以上あげた。もう一つ、脳外科手術せずに寝息のパターンで睡眠時間を測定する装置もつくっている。 著者は、研究のいちばんの難しさは「難しさを分解すること」だと書く。開発した技術はどれも、根本からの問題解決に不可欠な分解なのだ。これは科学研究に止まらない大事な視点ではないだろうか。 睡眠の制御機構は三つある。体内時計による制御、危険と関わるエマージェンシー制御、そして恒常性制御である。一定量の睡眠時間を確保するための恒常性制御は、「疲れたら眠る」という単純なしくみに見えながら、まったく答えの見えていない最難問なのだ。 これまでの研究で注目されてきた睡眠物質は、エマージェンシーの時に必要なのであって、それ以外の睡眠には寄与していないことが見えてきた。ここで著者は、逆に覚醒物質があるのではないかと発想を転換し、神経が興奮すると細胞内に入ってくるカルシウムに注目する。陽イオンであるカルシウムは、神経細胞を活性化する一方、カリウムを外へ出すはたらきをして神経細胞をなだめもするのだ。実験の結果、カルシウムに引き金を引かれてリン酸化酵素(体内時計でも活躍した)が眠気を制御していることが分かってくる。このメカニズムのレム、ノンレム睡眠との関わりなどを調べていくうちに、「睡眠時のほうが覚醒時に比べて神経細胞同士のつながりを強くする」ことが見えてきて、覚醒時は探し、睡眠時は覚えるのではないかという考えが生まれる。これが「シナプスはノンレム睡眠とレム睡眠のサイクルで進化しうる」という仮説につながっていくのだ。独自の発想と自ら開発した新技術を駆使しての本質解明。難問を抱えた現代社会が学ぶ問題解決法としても非常に興味深い。 [書き手] 中村 桂子 1936年東京生れ。JT生命誌研究館館長。生命誌という新しい知を提唱。 東京大学理学部、同大学院生物化学博士課程修了。 [書籍情報]『脳は眠りで大進化する』 著者:上田 泰己 / 出版社:文藝春秋 / 発売日:2024年06月20日 / ISBN:4166614541 毎日新聞 2024年8月17日掲載
中村 桂子
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