「全身血だらけ、必死に逃げた」 原爆孤児だった母の心の傷、語り継ぐ息子 #戦争の記憶
■残ったのは「骨らしきもの」
爆心地から約1.1キロ。倒壊した建物から自力ではい出し、必死で逃げた。背中に傷を負い、全身血だらけに。野宿をして翌朝、1人で自宅を目指したが「足の裏が熱くて前に進めない」。やっとたどり着いた爆心地から約330メートルの自宅跡一帯は、焦土と化していた。「相生橋では人々がうめき苦しみ、元安川には折り重なるように死体が浮いていた。生き地獄でした」 誰かの骨らしきものを自宅跡で拾い上げたが、6人の遺骨も遺品もない。九州の親戚宅に残っていた家族の写真が、唯一の形見となった。放射線のせいだろう。その後何年にもわたり頭痛やめまいに悩まされた。 11歳で何もかも失い「原爆孤児」となった久子さんを育ててくれたのは伯母だった。中学校を卒業後、伯母が始めた旅館で働き、調理師免許も取った。24歳の時、同じく被爆者の敬誠(ゆきのぶ)さん(95)と結婚。広島市内でも被爆者が少ない地域に住んだこともあり「『原爆はうつる』と陰口を言われるなど、差別を受けながらも互いに支え合って生きてきた」。2人の子どもに恵まれた。
■「聞くべきでない」と思ってきた息子の転機
久子さんは家族にも体験をほとんど口にしてこなかった。孤児として生きてきた母の苦しみの大きさを想像し、敏文さんも「あまりにも悲惨な体験で、軽々しく聞くことはできない。思い出させてはいけない」と考えていたという。大学進学や就職で広島を離れたこともあり、語り合うことは避けていた。 とはいえ、心の奥にはいつも「母の体験」のことがひっかかっていた。被爆75年の2020年夏、高齢で被爆者が年々少なくなっているとニュースで知り、何かせずにはいられなくなった。広島市はかねて、志を持つ第三者が被爆者に代わって体験を証言する「被爆体験伝承者」を養成している。敏文さんはまず、この研修を受けることにした。被爆者の笠岡貞江さんの体験を語り継ぐことになり、約3年間、体験の聞き取りや証言原稿の執筆と推敲を続けた。