村上春樹「彼らの音楽と同時代を過ごせてよかった」サイモン&ガーファンクルを聴いていた10代を語る
◆Paul Simon「The Sound of Silence」
ポールとデュエットを組んだ相棒のアート・ガーファンクルは、やはり同じ年にニューヨーク・シティで生まれています。誕生日は1ヵ月も違いません。2人はニューヨークの同じ小学校に通っていて、6年生のときに一緒に歌い始めます。最初はドゥワップを中心に歌っていたんだけど、途中からポールの作ったオリジナルの曲を歌い始め、そのうちのひとつ「ヘイ、スクールガール」がレコード会社のプロデューサーの目にとまり、レコーディングをして、ヒットチャートに入ります。このときのグループの名前は「トム&ジェリー」でした。 でもそのあとヒットは続かず、グループは解散したのですが、1962年に2人は再会し、デュオ・グループを新たに組み、コロムビア・レコードと契約します。「サイモン&ガーファンクル」の誕生です。それまでにサイモンはかなりの数の曲を書きためていました。そして1964年にアルバム『水曜の朝、午前3時』を録音して発売しますが、これはほとんど評判になりませんでした。「ああ、またボブ・ディランの真似っこか」と思われて、ろくに相手にされなかったんです。 それでがっかりしたサイモンは単身ヨーロッパに出かけて、そこでふらふら気楽な生活を送っていたのですが、そのときアメリカから、シングルカットされた「サウンド・オブ・サイレンス」がヒットチャートの1位をとったという一報が入ります。そりゃ、びっくりしますよね。寝耳に水っていうか。 ポール・サイモン本人の歌で聴いてください。サイモン&ガーファンクルがブレークする前、ポールが旅先のロンドンで1人で吹き込んだアルバムに収められていました。「サウンド・オブ・サイレンス」。 僕が初めて聴いたサイモン&ガーファンクルはこの「サウンド・オブ・サイレンス」でした。高校生のときですね。そのときちょっと思ったのは、「こういう音楽ってこれまでなかったな」ということでした。メロディーはありきたりのものじゃないし、歌詞もなんだか意味深そうだし、ロックでもないし、フォークでもないし……。そういう斬新さに心が惹かれました。サイモンは大学で英文学を専攻していただけあって、その歌詞はかなり知的というか、文学的です。そういうこともあって、彼の作る曲にはどことなく内向的な影がついてまわります。そういうのが好きな人もいれば、あまり好きじゃないという人もいるでしょうね。 サイモンはそれまでの不遇時代に書きためていた曲を、次々に録音して発表します。アルバムでいうと『サウンド・オブ・サイレンス』と『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』の2枚、そこからカットされた「早く家へ帰りたい」「アイ・アム・ア・ロック」、「スカボロー・フェア」といった曲が人気を呼びました。サイモンとガーファンクルの成功の要因は、彼らの曲が若者にも大人にも同じように受け入れられたという点にあります。若者たちはそこに新しい息吹を嗅ぎ取り、大人たちはそこにこれまでのポップソングには見受けられなかった、若々しい知性を感じ取ったんですね。 (TOKYO FM「村上RADIO~ポール・サイモン・ソングブック~」2024年12月29日(日)放送より)
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