大河ドラマ『光る君へ』の舞台、当時の面影を残した京都に、ウォーホルやジョブズも魅せられた。光源氏が生まれ育った京都御所は、今とは違う場所だった!?
◆京都御所から感じる『源氏物語』の世界 ご存じのように、『源氏物語』の舞台は平安時代の京都です。そして京都には、『源氏物語』に描かれた神社やモデルとなった場所が、往時の面影を残したまま現存する。海外の人にはそのこと自体が驚きではないでしょうか。 その代表例が京都御所です。御所には、天皇の住居と、宮中の儀式が行われる御殿があり、明治維新後、1869年に明治天皇が東京に移られるまで、歴代の天皇が実際にここに住んでいたのです。 『源氏物語』の設定によれば、天皇の皇子である光源氏も、この御所で生まれ育ったことになります。ただし、厳密に言えば、現存する京都御所の建物は、江戸末期の1855 年に造営されたもの。平安様式の建物ではあるものの、建っている場所も平安時代とは異なっています。 なぜなら、平安時代に建てられた宮殿は13 世紀に焼失してしまい、その後、再建されなかったから。現在の京都御所は、天皇が仮住まいをしていた摂関家(皇后の実家など有力な公家)の邸宅のひとつを、戦国時代の武将たちの援助を受けて拡大したものです。それ以降も、御所は焼失と再建を繰り返したため、現存する建物は築170 年程度と比較的新しいわけです。
◆当時の建築物はなくても 平安時代の都の中心であった大内裏(平安宮)は東西約1.2 キロ、南北約1.4キロの広さだったといわれています。ここに天皇の住居と行政の機能が集中していました。 東西南北に大路が走る碁盤の目のような都市設計は、当時も今も変わりません。ただし、平安京のメイン・ストリート、大内裏からのびる「朱雀大路(すざくおおじ)」の幅は約84mもあったそうです。ほぼ同じ場所を通る現在の千本通りが、広いところで25m 程度、狭いところで6mしかないことを考えると、平安京の街路のスケールの大きさがわかります。 幅が84m とは、道というよりも広場のようなもの。往時は、貴族たちを乗せた牛車がここを行き交っていたのです。 前述のように、現在の京都御所は『源氏物語』が書かれた当時の建築物ではありません。ただし、そのたたずまいは十分に往時を思わせます。 御所の塀には6つの門があり、それぞれに格式と用途が定められています。 ひとたび門をくぐれば、外の世界とは異なる厳かな空気を感じるでしょう。 『源氏物語』のなかの光源氏は、母亡きあと、父・桐壺帝に殊のほか愛されて育ちます。想像をたくましくすれば、あざやかな装束に身を包んだ光源氏が、優雅に舞う姿が見えるよう……。麗しき「光る君」を御簾越しに見つめる宮中の女たちのため息さえ聞こえてきそうです。
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