「マスメディアから黙殺された」オウム真理教を描いた映画監督の、“タブー”を世に問う執念の軌跡
撮りたいものと求められるものの間で
森達也の名前を一躍有名にした作品といえばオウム信者を被写体にしながら社会を撮ったドキュメンタリー映画『A』である。 '95年に起きた地下鉄サリン事件をきっかけに、テレビ局でオウム報道が加速する。 幹部信者のインタビューや、修行の様子を撮らせろといったオファーが教団に殺到する中、森はドキュメンタリーという手法でオウムの現役信者にアプローチすることを考えた。 撮影対象は上祐史浩の逮捕後、マスコミの前に唐突に現れた広報副部長・荒木浩以外にはいなかった。 「カメラの前でまるで拙い翻訳者のように言葉を模索しながら口ごもり、詰問されては立ち尽くす荒木さんを見て、彼だと直感しました。僕がオウムに感じ続けている強烈な違和感の由来を見定めることができるかもしれないと思ったからです」 しかし2日間のロケを終えた翌日、TBSが坂本堤弁護士のインタビュー素材をオウム幹部に放送前に見せ、それが弁護士一家殺人事件の引き金になったことが発覚。メディア全般に激震が走った。 「制作部長から呼び出しを受け、反オウムのジャーナリストをリポーターに起用すること、サリン事件被害者遺族のインタビューを構成要素に盛り込むことなどを要求され、即答しなかったんです。なんだか必要ないと思ってしまった。その後もプロデューサーと話し合いを続けるも、危険だと思われたのか、最終的に撮影の中断を命じられました」 それでも森は「放送する枠は別に探す」と荒木には伝え、ハンディのデジタルカメラを持って撮影を続けた。しかし交渉したテレビ局や制作会社すべてから断られた。 あげくの果てに「行動が目に余る」という理由から契約していた大手制作会社から契約解除を言い渡され、森は途方に暮れる。3人目の子どもが生まれる、暑い夏のことだった。テレビ業界から追われ、身動きの取れない森に助け船を出したのが、ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、進軍』の制作に関わった映画プロデューサーの安岡卓治(69)である。 「オウム報道のあり方はおかしいと思っていたから、自分の視点でオウムを描こうとしている森と意気投合。映画公開に向けて制作だけでなく、撮影や編集も手伝うことにしました」(安岡) 安岡が援軍に加わり、警視庁によるオウム信者への不当逮捕を偶然にも撮影することにも成功。およそ1年半の撮影期間と半年の編集期間を経て、2時間15分の自主制作映画として、映画『A』は'98年9月に公開された。 「当時オウム報道に関わっていませんでしたが、糾弾するメディアの非常に醜悪な姿は僕自身だと思いました。テレビ局にいたら、森さんのようなドキュメンタリーは作れない。僕にとっては会社を辞めるきっかけになった作品です」 そう語るのは、元フジテレビ社員で現在、数々のドキュメンタリー作品を手がけている大島新(54)。 しかし映画『A』は、非難を浴び逆風に晒されることに。森は当時をこう振り返る。 「“見るに値しないオウムのプロパガンダ映画”と、見ない人からの反発があまりに強く、マスメディアの大多数からも黙殺されました。マスメディアはオウムを“凶暴で凶悪な殺人集団”“洗脳されて感情や判断力を失ったロボットのような不気味な集団”として描いてきました。 ところが映画『A』に描かれている実際のオウム信者は、ほぼ例外なく善良で純粋。あれほど凶悪な事件を起こしたオウムの信者が、自分たちと変わらない普通の存在であることは絶対に認められない。これは社会の願望です。そしてメディアはこれに抗わない。視聴率や部数に大きく影響しますから、むしろ強調します」 吹き荒れる映画『A』への謂れなきバッシング。テレビ業界には、戻れそうにない。子どもたちのためにも「田舎に帰って仕事を探そう」と考えていた矢先、思いもよらぬ奇跡が起きる。 『A』がベルリンやバンクーバー、香港やロンドン、釜山などの国際映画祭から正式に招待され、森達也はいきなり“時の人”となったのだ。 海外で高まる評価のおかげで、テレビ業界に戻れたものの、森の苦難の日々は続く。 「ベルリンでスタンディングオベーションを受けた数日後に帰国して、お金がないのでNHK―BSの祭りの中継番組のADをやって“弁当が遅い”とプロデューサーに怒鳴られました。まあこの時期、ほとんどの人が知らなくて当たり前です」 厳しい現実との闘いの日々は、それからも森を苦しめることになる。