「マスメディアから黙殺された」オウム真理教を描いた映画監督の、“タブー”を世に問う執念の軌跡
“才能”も“運”もない。絶望の果て─
森はこのとき、『立教SPP』と並行して新劇の「劇団青俳」養成所にも所属。大学4年を迎えても、就職活動をする気にならず、両親に「しばらくアルバイトで生活する」と宣言して驚かせた。 「父は許してくれましたが、母は“なんで、なんで”と言って頭を抱えていました。そんな母の心配が的中したのか“研究生になれる”と思っていた『劇団青俳』は倒産してしまったんです。 仕方なくアルバイトで食いつなぎ、黒沢はじめ旧知の監督の映画に出演。他にも学校演劇や大衆演劇の世話になったこともありました。 そのころの食生活はインスタントラーメン1日1杯。このままじゃビタミン不足になると思い、アパートの周りに生えているハコベを摘んで一緒に食べていました」 そんな森に大きなチャンスが訪れる。後に大御所監督になる林海象が資金をかき集め、デビュー作『夢みるように眠りたい』を撮ることになり、森は主役に選ばれたのである。 「ところがクランクインの直前、当時アパートで飼っていた猫にひっかかれた傷から骨膜炎を発症。1か月入院している間に映画はクランクイン。この作品が大きな注目を浴び、僕の代役に選ばれた佐野史郎は、その後TBSの金曜ドラマで“冬彦さん”として大ブレイク。演技の才能はないかもしれないと、うすうす気がついていましたが、“運”もないとわかり絶望的な気持ちになりました」 しかもその時、一緒に住み始めた彼女の妊娠がわかる。人生最大のピンチを迎えた森達也、このとき28歳。生まれてくる子どものためにも、稼がねばなるまい。 そう決意して俳優への道をキッパリ諦め、背広とネクタイを買って求人誌を手に職探しを始めた。
ドラマ制作の夢のため転職した先は……
俳優への道を諦めて、小さな広告代理店にコピーライターとして就職した森。 「バブル景気に浮かれていた当時、見たことも行ったこともないゴルフ場やリゾート施設の広告記事を書く仕事に違和感を覚え、半年で退社。次に派手なテレビCMで有名になった不動産デベロッパーの広告宣伝部に入るも合わず、1年ほどで大手商社の子会社に転職しました」 この会社、給与は良かったものの日がたつにつれ、映画や演劇をやっていたころの日々が思い出され、やっぱりどうしても諦めきれない。 結局森は、新聞で募集広告を見たテレビ制作会社に飛びつく。ところが入社初日、思わぬ失敗に気がついた。 「テレビドラマに携わる仕事がしたくて入ったはずの会社が、ドキュメンタリー系の番組を得意とする会社だと知りました。でも今さら辞められないし……」 このうっかりがきっかけでドキュメンタリーの門を叩くわけだから、縁は異なもの味なものである。しかし30歳の森にとってAD修業はそう簡単なものではなかった。 最初についた番組がタレントの海老名香葉子・美どり親子がタイと香港を旅する番組だった。 「空港でディレクターに“ベーカム(撮影テープ)何本持ってきたの?”と聞かれ“ベーカムって何ですか?”と聞き返し真顔で呆れられたこともありました。そのレベルで仕事をしていました。 その後もディレクターの編集について仕事を覚えろと言われても、そそくさと帰ってしまうから評判は当然よくない。ADを数本、経験するころには、社内ディレクターのほとんどが僕と組むことを嫌がり始めていました」 しかし森自身は、「この仕事、なかなか悪くない」と手応えを感じていた。 「香港ロケの最中、凶悪犯や脱走犯のアジトと恐れられた九龍砦の中で香葉子さんが迷子になり、ディレクターに言われて怯えながら探しに行くと、地元の老婦人たちと楽しそうにお茶を飲んでいたんです。 この仕事についてなかったら、九龍砦の中にもこんな普通の暮らしがあることを絶対に知ることもなかった。つまり、現実性に惹かれたんです。まったく興味がなかったドキュメンタリーだけど、少しだけ続けてみようかと思いましたね」 当時の森を知るテレコムスタッフの長嶋は、こう話す。 「バンダナ姿に色付きのメガネをかけた森さんは、ADにはまったく見えませんでした。会議でえらそうに発言するものだから“あんた何様ですか?”と言ったことがあります(笑)」 そんな森も2年余りでディレクターに昇格。ドキュメンタリー作家・森達也の快進撃は、いよいよここから始まる。