選抜準Vで人気沸騰…怪我で離脱も強制“顔見せ”登板 痛み止め注射6本で「夏はもう無理」
牛島和彦氏は選抜から2日後の定期戦に登板…腰痛で投球不能に陥った
人気者のつらいところだった。1979年選抜大会で浪商(大阪)は準優勝を果たしたが、大会2日後にまさかのアクシデントに見舞われた。エースの牛島和彦投手(元中日、ロッテ、現・野球評論家)は、腰を痛めて投球不能状態に陥った。大阪・北野高との定期戦に、1イニングだけ“顔見せ登板”したところアクシデント発生。さらに治りかけで宮崎での招待試合に登板し快投したものの、故障悪化で夏に向けて大ピンチを迎えた。 【実際の写真】“細身のイケメン右腕”と話題…高校時代の牛島氏 選抜での牛島氏は、延長13回4-3でサヨナラ勝ちした準々決勝の川之江(愛媛)戦での221球をはじめ、多くの球数を投げたうえに連投の極限状態でマウンドに上がり続けた。7-8で敗れた決勝の箕島(和歌山)戦は、まさに気力だけでの投球だった。同時に注目度は爆上がり。“ドカベン”香川伸行(元南海)捕手とともに細身のイケメンエースとして人気も過熱したが、それが大会後に故障を誘発させることになってしまった。 「選抜が終わって中1日で北野高校との定期戦があったんです。で、そこで投げてほしいと言われました。僕は選抜で700球くらい投げていたし『無理です、放れません』って言ったんですけど、今まで(浪商が)弱い時もやってきた定期戦だし、急に準優勝したから投げさせないわけにはいかないとか言われて……」。人気者ゆえに休ませてもらえなかった。1イニング限定の顔見せ登板だったが、無理がたたって腰を痛めてしまった。 「投げ終わった後はもう駄目でした。アレーって感じでした。じーっとしていても腰が痛かった。選抜で連投して、終わって1日休んだじゃないですか。逆にずーっと投げていたらよかったのかもしれない」。緊張状態MAXの甲子園を終えて、一息ついた。体も緩ませたところでのマウンドは、それまでとは違ったのだろう。浪商は春季大阪大会に優勝、近畿大会も4強入りしたが、その間、牛島氏は腰痛治療のため、離脱を余儀なくされた。 「投げていなかったし、練習もしていなかったんですが(腰痛が)ちょっとだけマシになった頃の5月に宮崎で招待試合があったんです。招待されて行くわけですけど、宮崎ではテレビ放送があるということで、また、投げないわけにはいかないとか言われたんです。『まだ腰は痛いし、無理です』って言いましたよ。でも結局投げることになって……。そしたらノーヒットノーランをしたんですよ」 テレビ中継された中、無理しての登板で快投。さすがスターと言える結果だったが、牛島氏自身はそれどころではなかったという。「痛い中で投げたら、また腰がおかしくなって……。これで夏はもう無理だなって思いました。正直、甲子園も諦めていました」。しかし、周囲の見方は違った。「練習もろくにせずにテレビ中継の試合でノーヒットノーランをして、あいつは普段、手を抜いているとか、なんやかんやといらん噂が流れ始めたんですよ」。