選抜準Vで人気沸騰…怪我で離脱も強制“顔見せ”登板 痛み止め注射6本で「夏はもう無理」
夏の大阪大会はさらしを巻いて登板…快投を続け甲子園切符を手にした
牛島氏のヤンチャなイメージはそんなところからも広がっていったようだが、エースの腰痛は浪商ナインにとって夏に影響を与える一大事。「僕は同級生とかにも『もう夏には間に合わないわ』って言っていたんですけど『何とか投げてくれよ』みたいな話になって、6月くらいに痛み止めの注射を腰に6箇所うちました。それで軽くですけど練習も徐々に……」。だが、夏の大阪大会までに万全にはならなかった。 「僕らの時代、コルセットとかなかったので、さらしを腰に巻いて固めて、動かさないようにして投げました」。2回戦から出場の浪商は河南に2-0で勝利、3回戦の桜宮も3-0で下した。「河南戦は10安打くらい打たれたと思いますよ。それで完封。次も完封。また、みんな(腰痛のことを)信用してくれないんですけどね」。牛島氏は痛みと闘いながら必死に投げているだけなのに、結果を残せば“腰痛はホントか”と疑惑視されていたそうだ。 それほど、この大会の牛島氏は好投の連続だった。4回戦の豊中戦は9-2だったが、この2点は1学年下の投手が失ったもの。5回戦の成城工9-0、準々決勝泉南7-0、準決勝北陽2-0と、この時点まで1点も許さなかった。「ベスト8くらいから連投になってきたんですけど、その頃に何か薬が効いたのか、さらしを巻かなくても投げられるようになったんです。とにかく体を張って投げて……。決勝なんかはもうボロボロでしたけどね」。 決勝は小早川毅彦内野手(元広島、ヤクルト)らを擁するPL学園との対決となった。結果は9-3で勝利。浪商が初回に5点を先制。牛島氏は3回までに3点を失ったが、10安打を浴びながらも4回以降は点を与えなかった。「シングルヒットはOKって感じで低めに投げようと思って……」。小早川には3安打を許したが、いずれも単打。「タケ(小早川)にシングル3本だったら御の字でした」とも振り返った。 「PLには1年(1977年)の秋の近畿大会で勝ったけど、あれは甲子園を決めてからの試合でしたからね。甲子園をかけた試合で勝って、僕からすると初めてPLに勝ったって感じでしたね」。ただし、こんなことも言う。「あの時、PLは球場にギリギリで来たんですよ。後で聞いたら渋滞に巻き込まれて焦っていたらしいです。僕らはそんなことを知らないからどこかで練習してきたのかなと思っていましたけどね」。それも含めて浪商の流れだったということだろうか。 牛島氏はしみじみとこう話した。「大阪を勝ち上がるのはやっぱり大変ですよ。あの当時、8試合で下手したら5連投くらいしないといけませんでしたからね。僕の場合、腰は駄目でしたけど、肘、肩が大丈夫だったのがまだよかったんでしょうけどね」。選抜準優勝以降、騒がれて、騒がれて、コンディションも最悪の状態になりながらもつかんだ夏の甲子園切符。ここまでの道のりだけでも、いくつもの山を乗り越えた気分だったに違いない。
山口真司 / Shinji Yamaguchi