「マッサン」放送から10年、ブームがジャパニーズウイスキーにもたらした影響は 市場に起きた大変化
20年以上続いた“ジャパニーズウイスキー冬の時代”から奇跡の復活
近年のジャパニーズウイスキーブームについて論じる前に、日本におけるウイスキー誕生からこれまでの歴史について、ざっと振り返ってみよう。 日本初の本格ウイスキーと言われているのは、1929年に発売された「白札」ことサントリーウイスキーだ。当時、サントリーの前身である寿屋の社長・鳥井信治郎が、スコットランドに留学しウイスキーの製造を学んだという青年・竹鶴政孝の存在を知り自社にスカウト。鳥井は政孝が入社した1923年に大阪で蒸留所の建設に着手し、翌年に国内で最初のウイスキー蒸留所となる「山崎蒸溜所」が誕生。その初代工場長に就任した政孝は1929年、ついに国産ウイスキー第一号を生み出したのである。 政孝はその後、理想のウイスキー造りを追い求めて寿屋を退社し、1934年に北海道・余市にて大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)を設立。最初の数年は余市産のリンゴジュースを販売しながらウイスキーの製造準備を進め、第二次世界大戦が勃発した翌年、1940年に「ニッカウヰスキー」を発売した。 同社は戦時下において貴重なアルコールを製造する場として国から保護を受け、経営も安定したが、敗戦後には食糧難から密造酒が出回り、“模造ウイスキー”の流通によって市場は混乱。それが1950年頃にやや収束を見せると、戦中・戦後に参入した生産者らの間で熾烈な価格競争が起こるように。そうした中で、コストパフォーマンスがよく、消費者のニーズに合った製品を生み出すメーカーが支持され、特に寿屋(サントリー)、大日本果汁(ニッカ)、大黒葡萄酒(オーシャン)の3社は大きなシェアを占めるようになった。 高度経済成長期を迎えると、これら3社の製品を看板とするバーが急増し、ついにウイスキーは大ブームに。各社がさまざまなキャンペーンを仕掛け、国内消費量は上昇の一途をたどり、1983年には約38万キロリットルとピークを迎えた。しかし、焼酎や酎ハイの台頭もあって翌年からは右肩下がりとなり、蒸留所も閉鎖や生産停止が相次ぐなど、長らく冬の時代が続く。2008年にはピーク時の1/5ほどとなる7万5000キロリットルまで減少していたが、この流れを打ち破ったのが、同年にサントリーが始めた“角ハイボール作戦”だ。「角瓶」をソーダで割って飲む「角ハイボール」が全国の酒場を席巻し、国産ウイスキーの消費量も徐々に上昇して、2013年には10万キロを超えた。そこに、2014年の「マッサン」放映が背中を押すかたちで、ジャパニーズウイスキーブームはいよいよ本格化していくのである。 「“角ハイボール作戦”が浸透してきたころから、来店数やジャパニーズウイスキーの売り上げが伸びるなど、ブームの波は感じていました。特に『マッサン』が始まってからは、『竹鶴』や『余市』を求める電話が1日に5件以上くることも。ドラマが終わる頃には、肌感ですが、ジャパニーズウイスキーに関する問い合わせ数はそれまでより50%ほど増えていたと記憶しています」(倉島さん、以下同)