「文藝春秋」の創業者が「婦人公論」編集長を殴った“とんでもない理由”とは?(昭和のスキャンダル)
ベストセラー作家であり、文藝春秋の創業者でもある菊池寛。あるとき中央公論社の「婦人公論」が、菊池がカフェ女給を口説き玉砕する様子を小説で発表。激怒した菊池は、「婦人公論」の編集長を暴行するが、小説の著者・広津和郎が謝罪するとあっけなく和解。菊池はなぜ、広津をすぐ許したのか? ■女のウソを見破れない「太客」・菊池 「私小説」は自分自身と周囲をモデルにした小説です。しかし、他人を勝手にモデルにした「モデル小説」は、「私小説」以上のトラブルを生んできました。その最大の事例が、「文壇の大御所」菊池寛をモデルにした作家が登場する、小説『女給』です。 菊池寛をモデルにした吉水薫というキャラクターは肥満体で、銀座のカフェの新人美人女給・小夜子に暑苦しく言い寄り、玉砕する存在としてコミカルに描かれています。その一方で、やさしく、包容力がある男性としても描かれています。しかし、菊池は大いに気を悪くしてしまいました。 「婦人公論」の発売日の翌日にあたる昭和5年(1930年)7月17日、早くも菊池は中央公論社の嶋中社長(当時)に宛てた抗議文と、吉水のモデルである自分と、小夜子のモデルだった女給との交友関係について語ったエッセイを送り付けたのでした(ちなみにすぐに抗議文を送りつけるのは菊池のクセでした)。 菊池によると、熱心に迫ってきたのは女給のほうだったようですよ。しかし「タイガー(というカフェ)にいたとし子という女であろう。本名は須磨子というのである」という菊池ですが、彼女の本名は杉田喜久枝だそうです。菊池は女性の言葉を即座に信じこんでしまうようですね。 ■名誉毀損VS報道の自由 菊池が付けた文章のタイトルは『僕の見た彼女』でしたが、「婦人公論」はそれを勝手に「僕と『小夜子』の関係」と変更、掲載してしまいました。菊池がこれを知ったのはゲラ(印刷見本)のチェック時だったのでしょうが、編集部は彼からの訂正要請に絶対に答えなかったようです。ついに菊池は記事の掲載号の発売前日の編集部に突撃し、編集主任(編集長)だった福山秀賢の頭部を殴りつけ、怪我を負わせてしまうのでした。 菊池は本心では自身の容貌と非モテの「2大コンプレックス」を手痛く刺激した小説を掲載したことへの怒りが主だったのでしょうが、新聞広告の文章が不満だとして「名誉毀損」の訴えを裁判所に起こしています。殴られた福山も、報道マンですから、「文壇の大御所」の菊池が権力を背景に報道の自由を歪めたと思いこみ、菊池を暴行罪で告訴。お互いを告訴しあうという大変な事態となりました。 しかし、この事件の終結はあっけないものでした。 ■小説の著者・広津が頭を下げて解決 当初は静観していた『女給』の著者・広津和郎が双方の間に立って頭をさげると、すぐさまに和解が成立し、菊池・福山の両名が提訴を取り下げたのです。 『女給』を書いた広津は菊池の旧友でした。菊池が刊行した「文藝春秋」の暴露記事への皮肉のつもりだったようですが、彼を本当に怒らせてしまった……と広津はビクビクし、接触を意図的に避けていたのに、「神宮の水泳場」で、広津は菊池と鉢合わせしてしまいます。 しかし、菊池は「君に怒ってやしないよ。君は友達じゃないか」と広津には言うだけでした。ただ、「婦人公論」との調停の席に広津も同席してほしいという菊池の願いを聞いた広津は調停に加わり、先述のように、問題の解決に貢献したのです。 ■モテる広津に怒れなかった? なぜ、菊池は広津に怒れなかったのでしょうか。おそらく「男のプライド」なのでしょうね。そもそも菊池が「広津君、とんでもない小説を書いてくれたな!」と怒りをあらわにできる性格だったなら、暴力事件も起きなかったでしょう。菊池は自身の秘めたるコンプレックスなど(いくらそれが公然の秘密であっても)言葉にさえしたくなかったのかもしれません。 それに菊池よりは女性にモテた広津には、社会的地位を得ても、女性を口説くのに金の力に頼るしかない菊池の苦悩など、理解できなかったと思われます。後日、菊池と共通の友人である作家・久米正雄から「君、それは菊池は怒るよ。女にもてないところを書かれれば、それは怒るよ」という厳重注意を受けています(以上、広津和郎全集・第5巻より)。 大作家と一流出版社の編集者という庶民憧れの職業の人々の泥仕合は多いに話題を呼び、『女給』は大ヒット、その年のうちに映画化までされましたが、本当に罪な小説だったようですね。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹