嘘でつくられた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書」に困惑する人たち
依頼されて制作したケースが多い
馬部さんの研究によると、椿井政隆は謎の多い人物だ。 山城国相楽郡椿井村(現在の京都府木津川市)で明和7(1770)年に生まれ、天保8(1837)年に没したという記録はあるが、外見はもちろん、細かい人物像は定かでない。 ただし、数百点の史料を検証していくと、椿井政隆の偽文書は依頼者の求めに応じて制作したケースが多いという。 たとえば「筑摩社並七ヶ寺之絵図」は、現在の米原駅周辺を椿井が描いた。絵図には、筑摩神社や前述の世継神社のほか周辺の村が描かれている。馬部さんは、制作した背景には、江戸時代の琵琶湖の漁業権をめぐる地域の対立があったと説明する。他の史料によれば、この絵図の地域では磯村という村が支配権をもっていたとされる。だが、この椿井が描いた絵図では磯村の存在は大きく後退し、一帯が筑摩村の土地だったように表現されている。 「つまり、この絵図があれば『もともとここは筑摩村の領地で、ほかの村はもっと狭かった』と主張することができる。それが制作の目的だったと思われます」と馬部さんは指摘する。 対立があるところに椿井政隆はよく出現し、偽文書を制作していった。ただし、金銭目的とは考えにくいところもあると馬部さんは言い添える。
「彼は椿井村の地主のようなので、おそらく暮らしは豊かでした。ですから、金銭目的がメインではないでしょう。彼は複数の偽文書によって、壮大な偽りの世界を構築しました。まるで、子どもがブロックを組み合わせてジオラマを作って楽しむようなところがあります。結果的に自分が知恵を絞って偽作した文書が人々に認められればうれしかったでしょうが、そもそものモチベーションは自己満足にあったと言えます」
文書には事実も混ざっている
ただし、厄介なのは椿井文書のすべてが偽りではないことだ。椿井は一定の事実の上に少しずつ嘘を織り込んで制作する傾向があるという。 たとえば、冒頭で紹介した「圓滿山少菩提寺四至封疆之繪圖」。2014年に地元の教育委員会とまちづくり協議会で、菩提寺の跡地周辺を調査した。すると、かつて建造物があったと思われる平地が見つかり、鎌倉時代から室町時代につくられた瓦も焼けた状態で発掘された。つまり、椿井の「圓滿山」の絵図はすべて捏造ではなく、伝承などをもとに、現地調査もしたうえで室町時代の菩提寺の絵図を想像で描いた──そう考えられると馬部さんは指摘する。 「それでも、実際にはない日付を用いたのは、偽作の痕跡をわざと残すためでしょう。偽文書だと見破られたときに、『遊びでつくったもの』と言い訳できるからです。実際にない日付を記すのは椿井がよく用いた手法なのです」