嘘でつくられた歴史で町おこし 200年前のフェイク「椿井文書」に困惑する人たち
たしかに周辺には七夕を思わせる名称がいくつかある。天野川(あまのがわ)をはさんで、北側の蛭子神社には「七夕石」と呼ばれる高さ60センチほどの自然石があり、南側の朝妻神社には「彦星塚」(ひこぼしづか)と呼ばれる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。 この古文書の発見を、当時の中日新聞は「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」という刺激的な見出しで報じた(湖北とは米原市と長浜市を合わせた地域の呼び名)。 しかし、馬部さんによれば、「世継神社縁起之事」は椿井文書で、内容のほとんどがフェイクだという。 「この七夕伝説は、それ以前の古文書にはまったく見当たらないのです」 たとえば、享保19(1734)年成立の『近江輿地志略』には、「朝妻川」「天川」の記述は見られるのに、七夕伝説については一切触れられていない。蛭子神社=世継神社も、祭神不詳とされていた。
ところが、1987年の「世継神社縁起之事」の発見以降、地元ではこの「七夕伝説」の伝承が町おこしや教育に活用されてきた。実際、米原市は朝妻神社の彦星塚を指定史跡としている。 蛭子神社の七夕まつりは年々盛んになり、七夕の日が近づくと地元の小学生にふるさとの歴史を伝える特別授業(七夕教育)もある。 米原市の北村喜代隆市議は、これらの活動を積極的に進めてきた一人だ。じつは北村市議らは2010年、郷土史料を正しく保存するため、博物館や市の学芸員に「世継神社縁起之事」など複数の古文書を調べてもらった。その際、古文書や絵図は「椿井文書という偽文書の可能性がある」と指摘された。それでも、七夕の催事は続けてきた。 「椿井文書だと言っても、史料の発見以来、七夕教育は長く地元の行事として親しまれてきたものです。そうしてできた近年の歴史もまた郷土の歴史になっているのだと私は思うのです」
だが、馬部さんの著書を読んで、複雑な気分になったという。同書には「世継神社縁起之事」と、椿井文書の一つで古地図の写しと伝えられてきた「筑摩社並七ヶ寺之絵図」について、<大人が勝手に楽しむ分には構わないが、子供にすり込むのは教育上いかがなものかと思われる>という記述がある。 北村市議は「ひどい書かれ方」と思ったという。そして、「いまは絵図の地形が現在と異なる点から、過去の大地震について学んでいる」など防災教育への活用が中心だと反発した。そのうえで、ここまで書かれたのであれば、と続ける。 「しっかり行政として椿井文書を研究すべきだと市教育委員会の担当部署に提案しました。偽史として記されてきた背景が明らかになれば、それはそれでおもしろい。ですから、小学生に配る地元の歴史年表では、江戸時代の欄にあえて椿井政隆の名を入れました。偽文書作者とはいえ、地元の歴史に深くかかわる人物と捉えたからです」