刑事責任の根拠は「自由意思」なのに、実は「自由意思」は虚構かもしれない?…「犯罪の責任」について考える
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視… なぜ日本人は「法」を尊重しないのか? 【写真】「犯罪者」と「私たち」を隔てる壁は「意外と薄い」という事実 講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威である瀬木比呂志教授が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。 本記事では、〈「同性婚カップルが子をもつことを認める? 認めない?」…日本人が知っておくべき「同性婚に関する重大な法的知識」〉にひきつづき、刑事司法をめぐる日本人の法意識について、法学にとどまらない社会・自然科学的な観点をも交えつつ、掘り下げた分析を行っていきます。 ※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
犯罪と刑罰
まず、犯罪と刑罰の定義から始めてみたい。 犯罪とは刑罰法規の定める構成要件に該当する違法かつ有責な行為、それに対して刑罰が科される行為であり、刑罰とは犯罪を犯した者に対して科される法的制裁である。刑罰の根拠ないし目的、機能としては、一般国民との関係での犯罪抑止すなわち「一般予防」と、犯罪者自身との関係での将来の犯罪抑止すなわち「特別予防」が挙げられる。これらについては、死刑に関する節でより詳しく論じる。 さて、それではどのような行為が犯罪とされるのか。誰がそれを決めるのか。これは社会の成立とともに始まる古い問いだが、国家の成立後においては、国家が刑法という法形式で規定することになる。 近代・現代刑法の基本原理としては、法益保護主義、責任主義、罪刑法定主義が挙げられる。 法益保護主義は、原則として、他人の法益を害する行為を刑罰の対象とするものである。刑法は少なくとも直接的に倫理・道徳の保護を目的とするものではないから、倫理・道徳には反するが他人に被害を及ぼさない行為については、原則として刑罰の対象とはしないとする。個人主義、価値の多様性を前提とする現代社会に呼応した考え方である。 責任主義は、行為者に犯罪の責任を問いうること(非難が可能であること)を犯罪成立の要件とするものである。正当防衛、緊急避難(自己や他人の法益に対する差し迫った危難を避けるためにほかに方法がない場合に、やむなく他人の法益を害する行為)、責任無能力者の行為について犯罪としないのは、いずれも責任主義の帰結である。 罪刑法定主義は、法律によりあらかじめ犯罪として定められていた行為についてのみ犯罪の成立を認めるものであり、憲法上の要請である(三一条、三九条)。 以上のとおり、犯罪と刑罰を規定するのは国家だが、具体的にどのような行為が犯罪とされるのかについては、民主主義国家では、為政者のみならず国民、市民一般の法意識にも大きく影響される。犯罪と刑罰については、為政者や刑事司法権力がメディアを巻き込んでのさまざまなかたちのキャンペーン、人々に対するアピールが行われやすいことの一つの理由はここにある。民主主義国家では、国民の多数が処罰すべきでないと考える行為を国家が犯罪と規定するのは難しいからである。