矢口真里、活動再開のきっかけは“うそ情報”への危機感 仕事激減も「失態や挫折があったから今の私がいる」
2025年1月に念願だった歌のステージを開催
モーニング娘。OGの矢口真里が、来年1月19日に東京・GRIT at shibuyaでソロリサイタル『矢口真里バースデーリサイタル2025~珍しく本気で歌を届けます~』を開催する。芸能生活27年目にして実現する念願のボーカリストとしての公演。趣旨の異なる2公演(午後3時30分と午後6時30分に開演)を予定しており、なかでも第1部は、弦楽四重奏とピアノをバックに歌い上げるこれまでにない試みで注目のステージになりそう。15歳でモーニング娘。の2期メンバーに加入し芸能界デビューした矢口も不惑を過ぎ、円熟味を増してきた。だが、ここに来るまでは山あり谷あり……。30代の時にプライベートな問題から仕事が激減した経験をするなど、波乱な人生を送ってきた。もっとも、どんな時も仕事に対する情熱は失わず、今日に至る。ENCOUNTでは、激動の日々を乗り越え、今では息子2人の母となった矢口に、現在の心境や歌にかける思いなどについて話を聞いた。前後編にわたって紹介する。前編は「自身を支えた原動力と諦めない気持ち」について。(取材・文=福嶋剛) 【写真】「激レア」の声 矢口真里、長男が撮影した夫婦ラブラブ2ショット ――矢口さんは、もともと歌が好きでモーニング娘。に入ったそうですね。 「幼い頃、テレビでWink(女性デュオ)を見て、よく一緒に歌って踊っていたみたいなんです。その後、中学生の時にSPEED(女性4人組ダンス&ボーカルグループ)を見て同じ世代の方たちがめちゃくちゃキラキラしていて、『自分もあんな風になりたい』と思って芸能界への憧れが爆発しました。そんな時にモーニング娘。の追加オーディションがあると知って、自分で履歴書を送りました」 ――モーニング娘。ではミニモニ。やタンポポといったユニットでも活躍し、バラエティーでもブレイクしました。 「モーニング娘。では、歌やダンスに加えて、トーク力もないと生き残れなかったので、入ってからずっと話す力を鍛えました。私はバラエティーの道に進みましたけど、もともと歌いたくてこの世界に入ったので、歌で活躍している子たちをうらやましいと思って見ていました」 ――では、今回の歌に特化したステージは念願だったわけですね。 「いつか実現させたいと思ってきた念願のステージです」 ――1公演目(午後3時30分開演)では、弦楽四重奏をバックに歌う初の試みになるとか。 「そうなんです。初めてのソロリサイタルで、『本気で歌を届けます』というタイトルの通り、今まで元気いっぱいに歌ってきた矢口とは違う、しっとりとした歌のステージをお届けしたいと思います。今回は、鹿嶋静さんという有名なバイオリニストさんとのご縁が生まれ、弦楽四重奏の演奏で私が歌うというステージが決まりました。ピアノのスティーブンさんはグラミー賞を受賞した喜多郎さんのワールドツアーのメンバーで、そんなすごい方の演奏で歌うなんて本当にもったいないのですが、話が決まってからはワクワクドキドキの毎日です」 ――デビューからずっと応援してくれたファンへのプレゼントにもなりますね。 「はい。ファンのみなさんにも以前から『歌のコンサートを開催して欲しい』という声があったので、うれしいです。ファンのみなさんは、波乱万丈だった私の全てを見守ってくださり、今でも無償の愛を注いでくれる大切な存在です。ファンの方たちがいてくれたから私は芸能界で生き続けられていると言っても過言ではありません」 ――30代はプライベートな問題から仕事が激減するなど波乱な人生を送りました。それでも芸能界で生きていこうと思った理由とは。 「最終的に戻ろうと決めたのは、私に関するさまざまな情報が世の中に出た時、嘘の情報もたくさんあり、このままだと家族ら周囲をさらに傷つけてしまうという危機感を持ったことが一番の理由でした。それで事務所に『お仕事に戻りたい』とお願いして活動を再開しました。それから長い間、いばらの道でしたけど、体を張る役でも何でも、とにかくいただけるお仕事は全てやっていました。あの頃の私は『続けていたら必ず光が見えてくる』と信じて必死に生きようとしていたと思います」 ――ご自身を支えたのは何だったのでしょうか。どうやって乗り越えましたか。 「こんな私に、いろんな方が優しく手を差し伸べてくださいました。ファンの方々の支えのおかげでもあります。芸能界の先輩たちは、『とにかくおいしいものを食べに行こう』と家から私を引っ張り出してくれました。私の前ではネガティブな話を一切出さずに、それを忘れさせてくれるような時間を作ってくださいました。家族から受け取ったたくさんの愛も一生忘れられません。もちろん、ものすごく怒られました。でも、誰に何を言われようが、ずっと私の味方でいてくれたのも家族でした。この経験はとても大きかったです。今は2人の息子の母親になり『何があっても子どもたちの味方でいて、2人を守り続ける』という強い気持ちを持つことができているのもその頃の経験があったからだと思います」