ネット社会・民意の参加者「個室の大衆」 安倍解散vs小池劇場に見るSNS政治
投票参加者より「民意の参加者」
マーシャル・マクルーハン以来、テレビが政治に与える影響についてはよく議論されてきたが、インターネットという新しいコミュニケーション手段が与える影響については、今ひとつ決定的な議論がなされなかった。 筆者はここに「民意の参加者・個室の大衆」という概念を導入することによって、ネット時代の政治的特質が見えてくるような気がする。 このところ一連の政治現象を要約すれば、海外においては、アメリカ大統領選におけるトランプの勝利、イギリスの国民投票におけるEU離脱、フランス大統領選における極右の躍進とマクロン勝利とその支持率凋落、韓国における朴槿恵弾劾、ドイツにおける極右の台頭とメルケル勝利、各地で展開される独立意志の選挙などである。 いずれも事前の予想が難しい、激しい政治現象が現実化した。しかもこれまでの、国際協調、グローバリズムの潮流とは逆の、国家主義、民族主義の流れが表面化し、政治動向はきわめて流動的なものとなっている。 国内においては、大阪における橋下徹、名古屋における河村たかし、東京における小池百合子と、自治体の首長選挙がそういった状況を示した。国政に民意が反映されにくいことのバランスを取るかのように、既存の自治体政治(特に議会)に対する厳しい「ノン」が突きつけられたのだ。 そして森友・加計問題以来の安倍政権の支持率下落と、北朝鮮危機、経済指標の好調、民進党のスキャンダルなどによるその急回復と、それを見計らった解散、そして小池劇場の盛況、という現実であるが、こちらも革新から保守へという流れが顕著である。 また、大統領型の総理を目指す安倍政権の特徴として、これまでは一歩引いたところにいたマスコミと官僚が、政争に巻き込まれている。比較的中立であった新聞も雑誌もまたその記者も有識者も、さながら代理戦争のごとく、親安倍、反安倍に別れ、政界、官界、マスコミが一体となった政治闘争が展開されている。 つまり海外でも国内でも、これまでのマス・メディアが主体的に対応しきれなくなっているのだ。こういった現象に「ネット社会」というものの政治的特徴が匂ってくる。 久しく、政治の大衆化(衆愚化)ということがいわれてきたが、投票率が上がらなければ、ある種の政治意識をもった者だけが投票するので、投票者自体が大衆化したとはいいがたい。また投票率が高ければ大衆化であるのか、あるいは政治意識にすぐれた国民であるのか、簡単には結論が出ない。 コミュニケーション手段と政治の関係は、むしろ直接的な投票とは切り離した、民意形成の問題として考えるべきではないか。コミュニケーション手段は投票参加者にではなく「民意の参加者」に違いを生むのである。 つまりネット社会の流動的な民意は、必ずしも新聞やテレビと一致しないが、支持率と投票結果にはかなり反映される。というのが筆者の考えである。