生後すぐに命にかかわる難病、そして脳性まひの診断が。車いす生活でママになりたいと願った元東京パラリポーター【体験談】
一人暮らしや東京パラリポーターなど挑戦を続けてきた
その後絵里菜さんは札幌の大学に進学し、実家を離れて初めて一人暮らしを経験します。 「札幌にある大学で福祉を学びました。一人暮らしをした大学時代はすごく自由で楽しかったです。居宅介護サービスを利用して、朝2時間、昼2時間、夜2時間の短い時間にヘルパーさんをお願いし、生活のサポートをしてもらっていました。 小学校低学年のころは、いつも母が学校に付き添ってくれていたから、学校から帰宅しても『今日こんなことがあったよ!』と報告した記憶がなかったんです。でも大学時代に家族と離れて暮らし、やっと電話で親に大学でのできごとを報告できるような、自分だけの時間が持てたこともうれしかったです」(絵里菜さん) 大学卒業後には介護老人福祉施設で事務職として勤務していた絵里菜さんですが、そのころ大きな転機が訪れます。 「私は高校生のときに車いすカーリングに出会い、重度障害がある私にもスポーツができる楽しさに魅了され、カーリングのクラブチームで活動していたんです。その活動のなかで知り合った人に、『東京パラリンピックのためにNHKで障害者キャスター・リポーターを募集しているから応募してみれば』とすすめられました。 まさか受かるはずはないと思いながらも、ダメ元で応募してみました。すると、なんと159人の応募者の中から選んでいただき、リポーターを務めることになったんです。正直、内心は『どうしよう!』とドキドキしていました。 2017年8月中旬にリポーターの内定が出て、10月からの活動開始まで1カ月半。その間に、東京で車いすで住める部屋を探して、ヘルパーさんを探して、病院を探して、など本当にバタバタで準備しました」(絵里菜さん) パラリンピックの障害者キャスター・リポーターとしての活動は、2017年10月から2021年9月の任期までの約4年間。その経験が「大きな自信にもなった」と絵里菜さん。 「活動の中でさまざまな選手と出会いました。選手たちは競技に取り組む中で、いろいろな経験や工夫をしていることを知り、だれでも可能性は無限大だと感じました。リポーターの仕事の際に付き添って介助してくれたヘルパーさんたちとの出会いも財産です。 車いすで行けないところはない、と思えるくらいのサポートをしていただきました。車いすで生活する私が4年間リポーターとして取り組んだことは、これまでだれもしてきていないことだ、という自信にもなりました。 今は、帯広のラジオ「FM JAGA」の『ちばえりなのみんなの色』という番組パーソナリティとして、いろんな色を持っている人をゲストに迎えてトークしたり、自分自身の体験を発信したりしています。また、「NPO法人ポラリス」の理事をつとめ、障害の有無に関係なくだれもが楽しく暮らせる「まぜこぜの社会」を実現するために、スポーツやカルチャーイベントなどを開催する活動をしています。 2024年2月に女の子を出産し、今は子育てでなかなか活動が難しい部分もありますが、車いすママとして、私だからこそできることを講演会などを通して発信していきたいとも思っています」(絵里菜さん) お話・写真提供/千葉絵里菜さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部 自分の障害と向き合いながら、できることにチャレンジし続けてきた絵里菜さん。 次回はそんな絵里菜さんがパートナーと出会い、子どもを持とうと決意するまでのことについてです。 「 #たまひよ家族を考える 」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。 ●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。 ●記事の内容は2024年5月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
たまひよ ONLINE編集部
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