生後すぐに命にかかわる難病、そして脳性まひの診断が。車いす生活でママになりたいと願った元東京パラリポーター【体験談】
車いすで地域の学校へ通学。小学校では苦しい思いをしたことも
障害があっても、きょうだいたちと同じように地域の学校へ通わせたい、という両親の応援もあって、絵里菜さんは地域の小学校・中学校・高校に通いました。 「私はだれかの付き添いがないと学ぶことができなかったので、小学校3年生くらいまでは、母が毎日学校に付き添ってくれました。しかし、親子が1日中一緒にいることは、お互いにとって負担がないとは言えない状況でした。私も、学校で先生やお友だちとどんなことを話し、どんなふうに過ごしているかまで、すべてを母に知られていることはきゅうくつに感じていたと思います。 毎日私の授業に付き添う生活は母にとってもストレスだったようで、あるとき母に顔面まひの症状が出てしまいました。そこで社会福祉協議会に相談をして、ボランティアをつけてもらえることに。それ以降は母だけではなく、介助員の人も付き添ってくれることになりました」(絵里菜さん) 小学校生活では、クラスの同級生たちとの違いを感じ、自分に障害があることを苦しく思うことも少なくありませんでした。 「クラスの中で私1人だけが車いすだったので、ほかのお友だちは鬼ごっこなどいろんな遊びを楽しんでいる中、私だけ1人、体育館の端っこでそれを見ているような日々でした。 小学校の先生方も、私にどのように対応するかをいろいろと考えてくれていたのかもしれませんが、『車いすだから』と特別扱いのような対応があったことで、クラスの中では『なんで絵里菜ちゃんだけ…』と受け取られてしまい、いじめられてしまった経験もあります。『どうして私だけこんな障害があるんだろう』『どうしてこんなことを言われなければいけないんだろう』と、自分の障害を受け入れるのが難しく、苦しい時期でした」(絵里菜さん)
中学校の先生との出会いをきっかけに“自分らしく”いられるように
自分に人と違う障害があることをなかなか受け入れられずにいた絵里菜さん。その殻を破ることができたきっかけは、中学校の数学の先生との出会いでした。 「私は中学校でも介助員さんに授業のサポートをしてもらって、当たり前のように介助員さんにノートをとってもらっていたんです。ところがその先生は『地域の高校に行きたいなら、自分で字を書けるようにならないとダメだよ』と言って、ひらがなや漢字の書き方を拡大プリントしたものを用意してくれ、私に自分で字を書く練習をするように言ったんです。 先生のその言葉で、私は自分でできることさえせずに介助員さんに甘えていたのだと気づきました。すごく厳しい先生だったんですが(笑)、初めて、私のことをほかの生徒と同じように扱ってくれる人でした。その先生に出会って、障害があっても自分でできる範囲で努力する必要がある、と改めて気づいた気がします。 しかられたこともあるけれど、それもいい思い出です。ほかの生徒と同じように私に接してくれたからこそ、私も自分らしくいられるようになりました。中学生のときには、友だちと放課後におしゃべりをしたり、カラオケに行ったりして遊ぶようにも。 今でも家に遊びに来てくれるくらい仲よしの友だちもできました」(絵里菜さん)
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