「もう頑張らんでええで」…すい臓がんになった76歳妻に夫がかけた「意外な言葉」と「そのワケ」
だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。 【写真】「うつによる仮性認知症」と「本来の認知症」の見分け方 私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。 *本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。
看取りのときの誤解
人は一生のうち、何回くらい人の死に目に接するのでしょうか。 医者の仕事をしていると、年に何度も患者さんの死を看取りますが、ふつうの人は、両親、祖父母のすべての死に目に会ったとしても六回。そのすべてに立ち会う人は稀でしょうし、兄弟姉妹や親戚のケースを入れても、必ずしも全員というわけにはいかないでしょうから、多くても四、五回。それ以上になると慣れて衝撃も薄れるでしょうが、一般には経験豊富という人は少ないでしょう。 その割に、「死に目に会う」というイメージはかなり固定観念になっているので、さまざまな誤解が生じています。 在宅での看取りをしていたとき、私はこんな経験をしました。 七十六歳の膵臓がんの女性・Yさんは、長らく抗がん剤の治療で入退院を繰り返し、いよいよ効く薬がなくなって、体調も悪化したため、最期を自宅で迎えるために退院してきました。 私が初診をしたときも、かなりやつれていて、いやでも闘病生活の苦しさがうかがわれました。Yさん夫婦には子どもがなく、ご主人が甲斐甲斐しく看病をしていました。 容態が悪化して、そろそろかと思っていた矢先、訪問診療の巡回中にご主人から電話がかかってきました。私はスケジュールを変更して、Yさん宅に駆けつけました。 部屋に入ると、Yさんはすでに下顎呼吸の状態で、ご主人が横でじっと見守っていました。血圧も下がり、脈拍もほとんど触れない状況で、あとは臨終を待つばかりです。 看護師と神妙にベッドサイドに控えていると、ふいに玄関の扉が開き、三人の女性が駆け込んできました。彼女たちはYさんの従姉妹で、午前中に連絡を受け、急遽、和歌山から駆けつけたとのことでした。 ベッドで喘いでいるYさんを見ると、女性たちは覆い被さるように身を乗り出し、口々に言いました。 「○○ちゃん、しっかりしいや」 「和歌山の××やで。わかるか」 「あきらめたらあかん。頑張りや」 そのとき、横で見ていたご主人が、Yさんにそっと手を伸ばし、優しい声で言ったのです。 「もう頑張らんでええで」 三人の従姉妹たちは、もちろん善意でYさんを励ましたかったのだと思います。しかし、これまでの治療のつらさをずっと見てきたご主人は、これ以上、頑張ることの無意味さを身に染みて感じていたのでしょう。それでもう頑張らなくてもいいと、静かに死を受け入れたのです。 私は看護師ともども、深くご主人の言葉に共感しました。 死を受け入れるなどもってのほか、最後まであきらめずに頑張るべきだなどというのは、明らかに空論です。早すぎるあきらめは問題ですが、人は必ず最期を迎えるのですから、そのときは静かに受け入れたほうが安らかなのはまちがいありません。 さらに連載記事<じつは「65歳以上高齢者」の「6~7人に一人」が「うつ」になっているという「衝撃的な事実」>では、高齢者がうつになりやすい理由と、その症状について詳しく解説しています。
久坂部 羊(医師・作家)