事故でほぼ失明状態のサッカー選手が語る奇跡の復活。目標は「Jリーガー」
"バチーン!!" 2020年5月18日、松本光平の両目に、鈍い音とともに強い衝撃が走った。ニュージーランドでの自主トレーニング中のことだ。チューブトレーニング中に外れた金具が右目を直撃し、左目にはチューブが勢いよく衝突した。 【写真】壮絶なリハビリに耐えた松本選手ほか 「サッカーじゃなくて、陸上でパラリンピックを目指すしかないのかな」 病院に搬送される車中で、松本はこんなことを思った。 以降、松本は右目の視力をほぼ失い、左目は0.01以下に落ちた。手術で失明は辛うじて逃れるも、眼球の黄斑部に3つも小さな穴が開き、網膜剥離も患った。医師からは「サッカー選手に戻ることは不可能」と告げられた。しかし、松本は諦めなかった。 「僕のポジションは右サイドバック。左目が残っているからプレーはできるはずだ、と。落ち込んでいる暇はないので、すぐに復帰に向けて動き出しました」 視覚障害を負った事故から約3年後の23年夏。松本はニュージーランドの地で、プロとしてピッチに立っていた。トレードマークとなった黒ゴーグルを装着し、健常者に交じって、だ。奇跡のような復活劇だが、その道のりを平然とした様子でこう明かす。 「チームメイトや監督は、僕に視覚障害があることは知らなかったと思います。そうでないと獲得してくれません。プロとして一度ピッチに立てば、健常者も障害者も関係ない。僕はそう思っています」 新宿三丁目の某喫茶店。ひときわ目を引く金髪姿の松本と待ち合わせた。店内には長い階段があったが、白杖を使用せずに歩を進めていた。 松本の視界を再現したメガネを渡されると、私は軌跡の苛辣さを痛感した。右目は見えず、左目で辛うじて輪郭や色を認識できるが、ひどい乗り物酔いをしたかのような倦怠感に襲われた。この視力で競技を行なえるとは、にわかに信じられなかったのだ。 「手術後は目に入れたガスが抜けないよう、24時間うつぶせで2週間過ごしました。やっと動けるようになっても、歩いては気持ち悪くなり吐いて......の繰り返し。金髪でサングラスにマスク姿の怪しい男が公園で吐きまくっているので通報され、職務質問も何度も経験しましたね(笑)」 大阪で生まれ育ち、セレッソやガンバユースで育った松本。同期には柿谷曜一朗がいるが、〝天才〟の名をほしいままにした盟友をはた目に、ケガで25歳までまともにプレーできなかった。それでも、不思議と羨望の感情を抱いたことはない。オセアニアを中心に4ヵ国で人知れずプロとしての時間を過ごしてきた。 そんな松本のリハビリ生活を支えたのは、「クラブW杯」の存在が大きい。19年、ニューカレドニアの「ヤンゲン・スポート」在籍時に、同大会出場を果たした。以降は、ニュージーランドやフィジー、バヌアツ、ソロモン諸島などを転々。すべてはクラブW杯に出場の可能性があるチームを選択しての行動だった。 「19年に1回戦で敗れましたが、まったく納得がいくプレーができなかった。僕みたいなキャリアの人間が異国で結果を出そうと、Jリーグは見向きもしてくれない。 ただ、クラブW杯で活躍すれば話は違う。だから、もう一度あの舞台に立って活躍し、日本初の視覚障害のあるJリーガーを目指したい。よく、『あんな事故に遭った後なのにポジティブだね』と言っていただきますが、違うんです。やるか、やらないかだけで、僕にとってはシンプルなんですよ」